「攻撃される側」で過ごした一カ月は、音の恐怖にさいなまれた。ジェット戦闘機の音。対空砲火の音。空襲警報のサイレン。空爆の着弾音。銃声。砲弾のさく裂音。
それらの音が響くたびに、その場で首や体をすくめて身構える日々が続いた。

絶対に安全な場所などバグダッドにはなかった。この街にいる限り、私にもまた「選択肢」はなかった。
米軍の制圧から一週間がたち、バグダッドの街には「明るい」表情や光景も見られるようになった。割れた窓ガラスを片付けながら営業再開する店。米軍装甲車の脇の空き地でサッカーを楽しむ子供たち。

しかし、今も市内の病院には、空爆や戦闘に巻き込まれて負傷した多くの人たちがベッドの上に横たわっている。米兵の発砲で失明した人。砲弾で足を失った人。
病院の中でさえ手当てを受けられず、血まみれのまま息を引き取った少女の姿も見た。

無残な傷を負い、死んでいった人たちが、この街に私を引きとどめてくれたのだとも思うようになっている。彼らの叫び声、泣き声は、誰かが聞き、伝えなければならなかった。
「アメリカよ。何も言うな。おれに近寄るな。おれが何をした。おれたちは人間だ」
4月5日の空爆で負傷し、足の切断手術をした直後に会ったアベド・アルカリムさん(23歳)は、病室で天を仰ぎ、泣きながら、体をよじって叫んでいた。

その横で私は黙って立っているしかなかった。
「何のための戦争だったのか」
根源的な問い掛けを浴びせられた気がした。

まもなく、私はこの戦争を支持した国・日本にいったん帰国する。
日本人、いや私は、やはり泣き叫ぶ彼に爆弾を落とした側にいたのだと思う。
【共同通信社配信 連載記事「戦火のバグダッドから」より=2003年4月19日】

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