第1回 あるカメラマンの死
スーチー女史はなぜ解放されないのか。拘束のきっかけとなった5月30日ディペーイン虐殺事件の真相とは?

ビルマのノーベル平和賞受賞者アウンサンスーチー女史が2003年5月30日に拘束されて以来、7カ月が過ぎた。この間、米国・EUの経済制裁、日本の新規ODA停止など、ビルマ軍事政権に対する国際社会の圧力はこれまでになく厳しいものに変化した。しかし、軍政はいっこうにスーチー女史を解放する兆しを見せていない。

当初、軍政はスーチー女史の所在を明らかにしないまま、「拘束はスーチー氏の身の安全を確保するための処置」との説明を繰り返した。その後、9月にスーチー女史が婦人科系の病気で緊急手術を受けた後、そのまま自宅軟禁とした。これまでスーチー女史との面会が許されたのは、国連と赤十字国際委員会のみである。現在も外部との接触は完全に遮断されている。

しかし、そもそもアウンサンスーチーはなぜ拘束され続けているのか。それは、拘束のきっかけとなった「ディペーイン虐殺事件」をスーチー女史自身の口から語られたくないためだ。
2003年5月30日夜、スーチー女史ら国民民主連盟(NLD)一行は、ビルマ北部ザガイン管区を遊説中、ディペーイン郡チー村という小さな村の近くで約 5000人の暴漢に襲撃された。

その16時間後、軍政は記者会見を開き、今回の事件がNLDと反NLD勢力との衝突事件と発表した。しかしタイ国境で独自に調査を行なっていた民主化勢力は7月に報告書を出し、NLD党員4人と一般市民70人以上が死亡したと発表した。そして、この事件が軍政によって計画的に行なわれたものであると結論づけた。私はその報告書の基となった証言テープを入手し、この事件に関心を深めていった。

9月、私はビルマ第2の都市マンダレーを訪れた。ディペーイン事件で被害に遭った多くのNLD党員がマンダレー出身だったからだ。市内78番通りにあるNLDマンダレー本部事務所は、党の看板を掲げたまま扉を閉じていた。事件後、軍政は全国のNLD事務所を閉鎖させていた。事務所の前では、トランシーバーを持った軍情報部員が監視していた。

「父はまだどこかで生きているような気がしてなりません」。
セインセインフライン(仮名、23歳)は、父ウーモーウー(仮名、54歳)が亡くなったことが今でも信じられない。
5月29日朝、父はマンダレーの自宅を出て行った。NLD指導者アウンサンスーチー女史の遊説旅行に同行するためだ。
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