マオイストによる軍隊への襲撃がはじまる
「軍とは戦わない」という鉄則を破ったのはマオイストのほうだった。停戦成立から約4ヶ月たった11月13日、カトマンズで第3ラウンドの和平交渉が開かれた。新憲法制定のための制憲議会選挙を最低要求とするマオイストと政府のあいだの交渉は、まったく歩み寄りがないままに終わった。

その数日後から、マオイストが武装闘争再開を準備していることを示唆するさまざまな情報が入りだした。まず、マオイストの機関紙「ジャナディシャ」の編集長クリシュナ・センから、同党がまもなく「中央政府樹立を宣言する」とする情報を聞いた。(センはこの半年後、首都で警察に逮捕され、拷問死した。)そして、カトマンズ盆地に近いシンドゥパルチョーク郡から来た友人が「村の人民政府のメンバーが一斉に村を離れ、地下に潜行した」という情報をもってきた。

 
  タバン村では人民解放軍の一個中隊が集団生活をしていた。主食であるトウモロコシの粉を練った「アト」と、牛肉のカレーを作るマオイスト。牛を聖なる動物とするヒンドゥー教を国教としているネパールでは、牛を食べることは違法となる

11月23日、私はマオイストの本拠地であるロルパ郡への取材をアレンジしてもらうために、朝からセン編集長と連絡をとろうと試みていた。ところが、おかしなことに、「ジャナディシャ」編集室に何度電話をかけても、誰も受話器をとらない。

セン自身が私の携帯電話に電話をしてきたのは夕方のことだった。彼は、「あなたの取材はしばらくアレンジできなくなった」とだけ伝えて電話を切った。マオイストが各地で同時襲撃を決行したのは、その夜のことだった。

彼らの本拠地に近い西ネパールのダン郡ゴラヒやシャンジャ郡など複数の場所で、軍の兵舎や警察署、銀行などを一斉に襲撃したのである。翌日、マオイストは声明を出して、中央人民政府にあたる「統一革命人民評議会」の樹立を宣言。

さらに、党首“プラチャンダ”こと、プスパ・カマル・ダハルが人民解放軍の最高司令官に就任したことを公表した。
23日夜の同時襲撃で、ダン郡の郡庁所在地ゴラヒの軍兵舎がマオイストの最大のターゲットであったことは、兵士の約3分の1が兵舎を留守にしていた日の夜をねらって襲撃したことからも明らかだ。

バス数台を使った大胆かつ巧みな襲撃の仕方からすると、かなり前から計画されていることがわかる。しかし、襲撃の情報を全くつかんでおらず、虚をつかれた軍側は少佐を含む14人が死亡。マオイストは兵舎にあったロケット砲や軽機関銃を含む武器の大半を強奪することに成功した。後に筆者が取材したゴラヒ市民は、襲撃が終わったこの日の深更、勝利のスローガンを叫びながら、バザールをデモするマオイストたちの声を聞いている。

この日を境に、マオイストにとっての最大の敵は王室ネパール軍となった。彼らにとって、本当の意味での“戦争”がこの日に始まったと言っていい。
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