亡くなる寸前まで畑に出ていた
パーワンナウイ(中野愛三)

高砂兵・それぞれの戦地
台湾人元日本兵を訪問するのも三人目。輝第二遊撃隊のパーウン・ナウイの語る太平洋戦争・インドネシア。

戦後補償をめぐって
川中島で訪問した3人目の元日本兵は、パーワン・ナウイ(日本名・中野愛三)である。顔は長年の激しい労働が偲ばれるように赤銅色に輝き、深いしわが刻まれている。

彼は、マヘボ社の出身で、霧社蜂起の本拠地に生まれた。霧社事件の首領モーナ・ルダオの遠い血縁でもある。
彼は正規の陸軍兵で、輝第二遊撃隊第三中隊兵長という任務についた。送られたのはインドネシアのモロタイ島。

「モロタイ島といえば、あの中村輝夫のいたところですね」
「ええ、あの李光輝は逃亡兵ですよ。わたしと同じ部隊」
1974年12月18日、スニヨンこと中村輝夫はモロタイ島の密林の中でインドネシア軍によって発見された。台湾人元日本兵発見のニュースは日本でも台湾でも大きく報道された。

「あいつは戦争が怖くて、逃げた。それで出られなくなった。それを今頃出てきたら慰問金を出すなんて」
パーウン・ナウイは左手親指の先を銃創によって失っている。軍医部長名の傷病証明書や恩給診断書もある。日本人ならば当然、なんらかの補償の対象になっているはずだが、他の台湾人元日本兵と同様軍人給与さえ支払われていない(のちに日本政府は貯金残高を120倍にして返還。わずか数万円だった)。

中村事件の際、日本でも小野田さんや横井さんが出てきたときのように、中村を英雄扱いするマスコミもあったが、彼の評判は元日本兵の間ではすこぶる悪い。それに、「逃亡兵」に慰問金を出した日本政府のやり方に対し一種の侮辱感を感じている人も多い。勇敢な兵士ほど早く死ぬ。

戦死した台湾兵には一銭の補償もなく、「逃亡兵」が英雄視されたあの騒動は彼らに苦い記憶を残している(この事件のあと、台湾人元日本兵からの抗議を受けた日本政府は、戦死者に一律 200万円の慰問金を贈ることを決定した)。
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