吉田敏浩×新倉裕史 対談(12)
各国の地方自治体同士の連携で、戦争にむかう国家の暴走を止めることができるか? 小さな市民活動が平和のためにできることは?自治体や町内会との対話で結ばれる21世紀の平和運動。

《憲法9条はアジアの、世界の人びとへの約束》
吉田 憲法について考えるとき、かつて日本がアジアを侵略した歴史との関係を忘れるわけにはいきません。憲法9条は、加害者だった日本が戦争をしない国に生まれ変わったことの証しであり、アジアの、世界の人びとへの約束だと思うんです。

もちろん戦争責任の問題は戦後あいまいにされたため、アジアの人びとから戦後補償を求める訴訟がなされ、裁判がいくつもおこなわれています。日本人は一つひとつの加害責任に向き合わなければなりません。日本国家も責任を認めて補償に応じるべきです。

と同時に、まがりなりにも戦後日本は憲法9条があることで、軍事行動によって他国の人間を殺傷したりしていません。それがほぼ60年間にわたって続いていることにも注目したいです。
私は東南アジアの各地を取材で訪れましたが、「第2次大戦のときに日本軍がやってきて、人が殺され、暴行を受け、ものが奪われ、家を焼かれた」と度たび聞かされました。フィリピンのレイテ島に行ったとき、「戦争中、キャプテン吉田(吉田大尉)という男が部隊を率いて自分たちの村に来た。

村人を殺したり、とんでもない悪いことをしたが、おまえの父親ではないか?」と問い詰められたこともありました。
このときは、「吉田というのは日本人に多い名字で、人違いです。私の父はフィリピンには来たことがありません」と説明してわかってもらいましたが、最後まで疑わしそうな目で見る人もいました。

このようなときに私は、「戦後、憲法9条ができて日本は二度と戦争をしない国になった。自衛隊はあるが、海外に出ていって戦争はしないし、武器も輸出していない」ということを現地の人に話すんです。
憲法9条のことを知っている人も少なくありません。

憲法9条によって日本はもう戦争をしない国なったということがあるから、かつてあれだけアジアの人びとを苦しめた日本人なのに再びアジアに行ったり、住んだり、仕事をしたりすることが許されている面があると思います。憲法9条がアジアの、世界の人びとへの約束だという意味はそうしたことにもつながってきます。

新倉 ところが、政府は解釈改憲を重ねて憲法9条をないがしろにし、いま一線を踏み越えて、軍事力を行使する「力による支配」をめざす路線が強まっていますね。

吉田 まさに、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こりかねない事態になっているわけです。
自衛隊のイラク派兵問題で表れているように、国家が自衛官の命を国策遂行の「捨て駒」のように扱っています。国益という美辞麗句を掲げ、国のためには犠牲もやむを得ないという世論誘導をして、自衛官にある意味で死の覚悟を強いている。

一人ひとりの生命や人権よりも国家に重きを置く考え方が罷り通ってしまえば、人間を使い捨ての消耗品と見なす風潮が強まっていくでしょう。それは戦争につながる道です。
それに対して、個々人が自分のなかで湧きあがる生命への思いや、戦争の加害者にも被害者なりたくないという気持ちをもとに、戦争への協力を拒否することは当たり前だ、という声を上げていきたいですね。

自衛官も、戦地に派遣されるような危険で、人間としても納得のいかない任務を良心に基づいて拒否できるようにすることが必要です。国家や役所や企業など組織の論理に自分の命や生き方をゆだねないことが大事です。

自衛官や戦争に動員されかねない民間労働者、自治体職員の「戦争協力拒否」「非協力」を市民は支え、地域からこの声を広げていく。
それがこういう時代状況であっても、一市民としてできることだと、新倉さんとお話して、あらためて見えてきました。
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