「リーダーに会える可能性はない」と繰り返し言われる
ロルパに入って4日目の9月23日朝、私たちはまだ、今回の取材の目的であるマガラート自治区人民政府の“首相”サントス・ブラ・マガルへの接触ルートを探せずにいた。リーダーの所在を知っているマオイストに会ったものの、「遠いところにいるので、会える可能性は低い」と言うのだった。ガルティガウン村に着いた翌朝会ったマオイストは、「会える可能性はない」とさらに厳しい答えを返してきた。

DCM(District Committee Member、郡委員会メンバー)であるこのマオイストは、私と同行者のウダヤの2人をバザールにある店の2階にある部屋に呼んで、取材の目的など私たちに“聴取”した。彼の態度には最初から友好的なところがなく、私たちに対する不審の念と疑いをあからさまに出していた。挙句の果てに、こんなことを言ってきた。

「このあいだの中央委員総会の決定で、われわれの地域に入るジャーナリストに登録制を布くことになった。あなたたちだけで勝手に先に進んでもかまわないが、安全は保障できない」
ネパール政府側の登録証(プレス・パス)しかもたない私たちは、彼らの地域には入れないと暗に脅されているようにとれた。彼のような態度を示すマオイストには、これまでにも何度か遭遇していたので、対処の仕方は心得ていた。争わずに話しを聞くだけ聞いて、他のマオイストと交渉すること。今回も、これが効を奏した。

このマオイストの反感をむき出しにした態度の背後に、それなりの理由があることが後でわかった。ロルパ郡南部にある村で教師をしていたこのマオイストは、人民戦争が始まる前に、当時与党だったネパール会議派の支持者に自宅を包囲され、銃で撃たれそうになったことがあるのだという。彼は家にあった自家製ライフルで逆に撃ち返し、一人を負傷させた。

その後、負傷したネパール会議派の支持者が、彼に対する訴訟を起こしたため、彼は逮捕を逃れるために自宅を離れて逃亡した。マオイストが1996年2月に人民戦争を開始するとまもなく、彼の自宅を包囲したネパール会議派の支持者の一人がマオイストにより殺された。“復讐”は“復讐”を招いただけだった。2002年に、国家非常事態宣言が発令されていたあいだ、村にいたこのマオイストの妻が王室ネパール軍により殺害されたのである。

彼のストーリーは、これまでに1万人の命を奪った人民戦争のなかのほんの一部をなすにすぎない。昨年、ルクム郡を取材したときに、家族が政府側に殺害されたために、マオイストになった大勢の人に会った。夫が襲撃で死んだ18歳の女性が、「いつも復讐することばかり考えている。国に属するすべての人が敵」と、国家に対する敵愾心と嫌悪の情をむき出しにして話していたのを思い出す。
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