ついに、国民民主戦線とビルマ民主戦線の司令部のあるマナプロウに到着。そこはあまりに開放的なゲリラ拠点だった...。

メーサムレップに到着。河岸まで行く彼らについて、ビルマ側に渡るボートのすぐ側まで一緒に行った。外国人である私の姿を見ても、周りの人は誰も不審がっている様子はない。

ボートに乗り込んだ2人に、「気をつけて」と手を振って、見送った。(写真右:タイ・ビルマ国境の町メーサムレップ。ここからサルウィン河を下り、KNUの司令部であるマナプロウへ向かう)

翌朝、私はメーサリアンのホテルを引き払る。タイに持ってきた全ての荷物を持った私は、前日若いカップルがボートに乗り込んだ場所に立った。
「マナプロウに行きたい」
私はボートの運転手にそれだけ告げた。

後日判明したのだが、メーサムレップは当時、KNU(カレン民族同盟)と地元タイ警察や国境警備軍とは友好関係だった。KNUを支援する外国人がメーサムレップをうろつくことはそう珍しいことではなかった。

サルウィン河からモエ河へとボートは水を切って進む。船尾ではためいていたタイ国旗がいつの間にか取り去られている。ボートからビルマ側を眺めていると、ところどころで製材所で働く人と象が見える。のどかな風景だ。
マナプロウに着くまでに、ボートは3箇所のチェックポイントに立ち寄った。だが、ボートの中にいる私は何の質問もされることがなかった。マナプロウ到着後、外国人慣れ、取材慣れしているKNUの広報官に迎え入れられた。
「どうぞ、取材はご自由に」
あまりにも簡単なゲリラ司令部への到着。
「反政府ゲリラ拠点への潜入!」
映画のような冒険話などでは全くなかっった。ちょっと拍子抜けしてしまう。
マナプロウで約4ヶ月近く生活するうち、「来る者は誰でも受け入れる」。そんなKNUの体質を徐々に理解し始めた。緊張感はあまりなかった。

しかし、司令部での生活は楽ではなかった。10m先が見えなくなる激しい雨。1週間放置しておくだけでカメラのレンズにかびが生えてくる湿度の高い環境。

この時期、ジャングルの中に入り込んで長期間の取材をする者は他にはいなかった。また、雨季の最中、病気の発生率も高くなる。
(写真右:朝靄の中、私の歩き回る音につられて、山の頂上につくられた塹壕から起き出してきたKNLA兵士)

マラリアやデング熱にはかかって当然、運が悪いとコレラや破傷風にも感染する。
KNUを医療面で援助する米国の団体が、医師1名と看護婦2名を派遣してきた。そのうち医師と看護婦は、1ヶ月もたたないうちにマラリアに罹り、マナプロウを後にすることになった。

外国からの取材者は、ほとんどなかった。ただ、マナプロウ領内や難民キャンプで英語を教える欧米人は数名いた。ときに軍事指導の米国人が数名現れたり、KNLA(カレン民族解放戦線)に義勇兵として参加している仏人や日本の若者も目にした。

雨季の期間は、敵味方とも補給路が確保できないので戦闘にもならない。私は暇をもてあましていた。それは司令部とて例外でなかった。勢い、KNUの幹部連中と親しくなった。彼らから、カレンの闘争史やビルマの実情など、じっくりと話を聞くことができた。

(写真右:マナプロウにはカレン民族の兵士
だけでなく、軍政に対して共闘するモン民族
やラカイン民族からの訓練兵も集まる。)

今はタイの町に住むKNUの幹部の1人、Dに会ったのもその時である。
「外国からの報道陣はすぐに、『カレンやカチンなどの民族がなぜ闘っているのか』と聞くけど、我々のやっていることを戦闘(fighiting)だと軽々しく表現して欲しくないなあ。

我々はあくまでも抵抗(resistance)しているんだから。そのことを勘違いする者が多い。また、君もそうだけど、ビルマ軍政府の抑圧に対して、では『少数民族(minority)』はどうするのか」とも質問する。

でも決して、軍政側、ビルマ人側のことを『多数派(majority)』って表現しないね。なぜかね。人口の多い少ないで、区別するそういうやり方には納得しないよ。

どうしてそんな呼び方をするのか。ビルマ人とカレン人はあくまでも平等なんだから。我々は、カレンはカレンであり、カチンはカチンであるのに。人口の多い、少ないで区別はしてほしくない。そんな君らの基準を持ち込んで欲しくない」

(写真右:タイ・ビルマ国境を流れるサルウィン
河で水遊びに興じるカレンの子どもたち。)

それ以後私は、特に「多数派」と比較する場合を除いて、「少数民族」という言葉の代わりに「民族集団(ethnic group)」という言葉を使うようになった。
マナプロウに到着して2週間目の19933年年6月1日(火)、ようやく最前線に行く許可が下りた。

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