国境線のサルウィン河が、民族を、家族を分かつ。宇田はその現実を目の当たりにした。

 1995年1月、マナプロウが陥落。KNU関係者はその直後、タイ側に逃れ、山深い森の中に数千人規模の難民キャンプを設けた。5月中旬、タイ国境警備隊の監視を避け、その難民キャンプに潜入してみた。マナプロウからの知り合い、Dさん宅に隠れるように住み込んだ。そのときだった、Dさんのところに、タイ側に住むタイカレン人のおばあさんが訪ねてきた。

(写真右:山の頂部分に掘られたカレン軍陣営の塹壕。左側にビルマ軍が駐屯する。)
「タイ側に住んでいる親戚なんです」
そう紹介された。サルウィン河をはさんで、2つの国が分断されている。人為的に引かれた国境線が、1つの民族、1つの家族関係を分けている。その現実を目の当たりにすることになった。

また、キャンプ内で、スゴーカレン人とポーカレン人の会話に耳を傾けていたとき、彼らはビルマ語を使って話をしているのに気づいた。
「あれ、なんで」
後で説明を聞く。カレン人の中でも、人口の多いスゴーカレン人はポーカレンの言葉を十分に理解できないらしい。言葉は違うのだ。でも、彼らは同じ「カレン民族」として文化や歴史を共有している。
「言葉が違えば、民族が違う」
そういう民族の分類方法もここでは通用しない。いったい誰がこんな民族の区別をするようになったのか。

国家にしても、民族にしても、我々はどんな基準で区別してきたのだろうか。基準の背景をあまり考えず、ありのままを簡単に受け入れてきてしまった。彼らの民族の歴史のひとつをかいま見たような気がした。
「ミャンマー(ビルマ)には135もの異なった民族がいる。それらをまとめ上げるには、今の政権以外では不可能だ」

1990年の総選挙の結果を反古にし、武力で政権を維持し続ける現在のビルマ軍政権は説明する。ビルマ国内の民族数は、実のところ40弱とする説もある。自らに都合のいい考え方にしがみつく権力者の姿だ。そんなビルマ軍政権に同調するアセアン諸国と日本政府。

 (写真右:傷ついても銃を取り続けるカレン兵士。)
カレンの取材にも慣れた1998年の夏、久しぶりにタイとビルマの国境町メーサムレップにやってきた。KNUと袂を分かち、ビルマ軍政権と手を結んだDKBO(民主カレン仏教徒同盟)の兵士たちが越境を繰り返し、タイ領の村やカレン人難民キャンプに襲撃を続けていたころだ。

メーサムレップはタイ軍によって厳重に警備されていた。サルウィン河の対岸ビルマ領には、赤いビルマ国旗とDKBA(民主カレン仏教徒軍=DKBOの軍事部門)の黄色い旗が並んではためいている。

メーサムレップは勝手知った所だ。タイ兵士の警備線をすり抜け、サルウィン河の岸辺まで行った。そこで、ボートを借り、ビルマ側へ上陸してみる。
ビルマ側でボートを降りると、警戒中の兵士がすぐにやって来た。私は「ニラゲー、ワラゲー(こんにちわ、こんにちは)」とカレン語で挨拶してみる。だが、彼にカレン語は通じない。どうやらその警備兵はビルマ兵らしい。

3世代に及ぶ内戦は今も続く。老兵
と少年兵が同じ兵舎で時を分かち合う。

「将校に会いたいんだが」
人差し指、中指、薬指の3本の指を肩に当て、将校を示す仕草をしながら話しかけてみた。
「ノー、ノー、ミャンマー、タイ、タイ、(だめ、だめ、ここはミャンマーだ、タイへ、タイへ帰りなさい)」

明らかにその兵士は、いきなり河を渡ってきた外国人にとまどっていた。
「ナム、ナム(水、水をくれ)」
タイ語で言いながら、額の汗を拭く。
「暑いから、水だけでも飲ませて」
間髪入れず、英語で話しかけ、近くの小屋に上がり込んだ。小屋の中には自動小銃(M16)をかついだ兵士が数名座っていた。これは絵になる。あわててシャッターを切った。だが、完全な逆光で絵にはならない。フラッシュさえあれば・・・。

ビルマ軍とDKBA軍の越境より焼き
討ちにあったカレン人難民キャンプ。タイ領
にある難民キャンプの存在は、ビルマ国内
の厳しい生活から逃れた証拠となる。

「だめ、だめ、帰りなさい」
カメラを出して写真を撮った瞬間、兵士の語調が強くなった。プチンとその場の雰囲気が変わったのを感じる。兵士の顔は険悪になる。仕方ない、ここは引き上げるか。帰りはビルマ軍のボートでタイ側に送ってもう。

ビルマ領からタイ側に逃げ込んだカ
レン人たち。その数は増えることはあっても
減ることはない。雨の厳しい雨期の晴れ間、
家の修理のため山から竹を切り出す。

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