【真屋求さん】

【真屋求さん】

1926(大正15)年に香川県三豊郡の農村に生まれた真屋は、旧制中学を卒業後、44(昭和19)年に教員になるための香川師範学校本科に入学した。しかし、すでに戦時中であり、翌年、学徒勤労動員によって、愛知県にある飛行機工場で海軍偵察機のエンジン製造に従事した。次の年、18歳で繰り上げ召集され、丸亀歩兵連隊に入隊するが、戦地に赴くことなく敗戦を迎えた。

戦後、師範学校に復学し、卒業してから香川県下の小学校に4年近く勤務する。だが、東京の大学で学んでみたいとの思いがつのり、1951年、中央大学法学部の夜間部に入学するとともに、東京都文京区の小学校に勤めた。そして結婚もした。

大和市上草柳地区に引っ越してきたのは、1960年の春である。その2年前に、東京都板橋区で買った建て売り住宅が台風による洪水で傾く被害に遭い、引っ越し先を探していたところ不動産の広告で安い物件を見つけたのだった。日曜日に土地を見にきて、緑の多い環境も気に入った。小田急線で東京都内まで1 時間前後、相鉄線で横浜へ30分ほどと交通の便もいい。

「当時、厚木基地は厚木市にあると思い込んでいました。まさか、南に1・5キロしか離れていない所に基地があるなんて想像もしません。後で知ったのですが、ちょうど滑走路のかさ上げ工事中で訓練飛行は休止していたから、爆音もしなかったんです。

ところが、家を建てて住み始めて、2ヵ月ほど経った6月1日ですよ。本を読んでいたら、突然轟音がしました。5歳の長男が耳を押さえて私に抱きついてきました。3歳の次男も同じように家内に抱きつきました。驚いて、何事かと庭に飛び出してみると、ジェット機が覆いかぶさるように飛んでいたわけです。しまった! 参った! と思いましたね」
真屋にとって、それがほぼ半世紀にわたる爆音と向き合う日々の始まりだった。
(文中敬称略)
つづく
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