こうして9月25日に、厚木基地爆音防止期成同盟と改称された。だが、真屋自身の心の中では、「できることなら逃げ出したい」という気持ちが根強くあった。そこに、大きな転機をもたらす出来事が突然起きる。

翌年の10月8日(日曜)、家の近くにある中学校で運動会が開かれていた。当時6歳の長男隆志と4歳の次男有英が、折から来訪中の真屋の兄に、「運動会を見にいきたい」とせがんで、自転車で連れていってもらった。真屋本人は東京都内の勤め先の小学校の運動会に出かけていた。

【かつて真屋さんの子どもたちが事故にあった踏み切り】

【かつて真屋さんの子どもたちが事故にあった踏み切り】

運動会の帰り道、真屋の兄が隆志と有英を自転車に乗せて、小田急線の遮断機も警報機もない無人踏み切りに差しかかったとき、米軍のジェット機が飛んできた。その爆音で、近づく電車の音がかき消され、聞こえなかったため、真屋の兄は電車に気づかなかった。

踏み切りを渡り終える寸前に、自転車の後部を電車に撥ねられた。一番後ろに乗っていた隆志は跳ね飛ばされて枕木に頭を打ちつけて即死し、有英は頭を打って瀕死の重傷、真屋の兄も肋骨を6本折る重傷を負った。電話で事故の知らせを受けた真屋が病院に駆けつけると、隆志は霊安室に横たわっていた。妻の道子は気が動転しながらも有英のそばで看病していた。真屋の兄は「すまなかった」とひたすら詫びた。有英は一命をとりとめた。

「息子の事故死があってね、もう俺はここを動かんぞ、逃げ出さないぞと腹が決まりました。家内とも語り合って、息子の血が染み込んだ土地を、親が離れるわけにはいかない、と......。だったら、基地をどかしてやると、腰が据わったんです」 それは、46年前のその日と、それからの歳月を胸にたぐり寄せるような声だった。 (文中敬称略)
つづく
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