ネパール滞在14年、小倉清子が現地から送る激動のネパールの深層報告
「農村から都市を包囲せよ!」毛沢東が70年前に唱えた方針を、冷戦の終わった21世紀の今 実行に移し、勢力を急伸張させたネパールのマオイスト。
なぜネパールでそれは可能だったのか?マオイストの姿を追い続けた小倉が報告する。

070820_02_ogura【写真左:2006年3月にロルパ郡タバン村で会った人民解放軍の女性たち】
【写真右:2006年9月にカトマンズ開かれた集会で演説する、ロルパ郡出身の人民解放軍副指揮官"パサン"】

ネパール マオイストの肖像 小倉清子
第1回  マオイストはなぜ、人民戦争を始めたのか
ロルパで始まった人民戦争
1996年2月13日にマオイストが人民戦争を始めてから、最も大きな変化を体験したのはロルパ郡に住む人たちだろう。
1995年3月にネパール共産党毛沢東主義派が結成されるまで、首都カトマンズから西へ約250キロ離れたこの郡のことが、メディアの話題になることはほとんどなかった。
ロルパは、ネパール統一以来、カトマンズから国を支配した支配者たちが、まったく目を向けることのなかった数多くの山岳地帯にある郡の一つにすぎなかった。

そのロルパが注目されたのは、1995年11月、当時のネパール会議派のデウバ政府がロルパ郡を舞台に、「ロメオ作戦」と呼ばれるマオイストの活動をコントロールする作戦を展開させたときだった。
大規模な警官隊が動員され、死者さえ出なかったものの、大勢の負傷者と逮捕者を出した。

nepal_map005rolpa.gif当時から、マオイストは西ネパールの山岳地帯にあるロルパ郡と、その北に接するルクム郡を人民戦争のベース・エリアとする目的で準備を始めていた。
マオイスト弾圧の目的で始めたロメオ作戦は、一般の村人のあいだでの反政府感情を高め、逆に、ロルパにおけるマオイストの基盤を強める結果となった。
次にロルパの名前が新聞の一面を飾ったのは、翌年2月15日のことだった。ロルパから遅れて届いたニュースは、2日後のこの日に日刊紙『Kantipur』の一面に掲載されている。

それは、2月13日の夜、ロルパ郡南部にあるホレリ警察署を、覆面をした何者かのグループが襲撃したというニュースだった。
これこそ、マオイストが人民戦争を開始したことを告げる襲撃だったのだが、新聞は襲撃者グループの名前を特定することなく、人民戦争にも触れていない。襲撃のあと、彼らが「マオバディ・ジンダーバーダ!(マオイストに勝利!)」と叫んでいたという証言のみが掲載されている。

最初の襲撃をしたマオイストたち
人民戦争の最初の襲撃となった、このホレリ警察署襲撃には、ロルパ郡の36人のマオイストが参加しているのだが、その後、武装闘争を続けるなかで、トップレベルのリーダーやコマンダー(指揮官)となった、錚々たる顔ぶれのメンバーからなっていた。
まず、襲撃を指揮したコマンダーの"アナンタ"(バルサ・マン・プン)と、副コマンダーの"パサン"(ナンダ・キショル・プン)はその後、15,000人の部隊に膨れ上がった人民解放軍の副指揮官(最高指揮官はプラチャンダ党首)となっている。

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