【「人的資源」について議員による様々な発言がなされた国会議事堂】

【「人的資源」について議員による様々な発言がなされた国会議事堂】

第4章
戦後日本の経済大国化のなかで

経済復興と「人的資源」活用論
北村徳太郎は1886(明治19)年、京都に生まれた。大阪の北浜銀行に入社した後、播磨造船所(後の石川島播磨重工業)などを経て、佐世保商業銀行の頭取や佐世保商業会議所の会頭になるなど、実業家として歩んだ。

1946年に戦後最初の総選挙で衆議院議員に初当選した。片山哲内閣では運輸大臣、その次の芦田均内閣では大蔵大臣を務めた。1960年の総選挙で落選するまで7回連続当選している。
北村は若い頃に、牧師の植村正久や牧師で社会運動家でもあった賀川豊彦との出会いを通じて、キリスト教に入信し、トルストイとシュバイツアーに影響を受けたという。

「北村徳太郎の研究」(西住徹著 神戸大学博士学位論文 2005年)によれば、北村は戦後日本の保守政界において、キリスト教的ヒューマニズムに立脚した独特なリベラル政治路線を掲げた政治家であった。
吉田茂率いる自由党の「古典的資本主義」に対して、「中小企業・農村対策」を重視する「修正資本主義」の政策を唱えた。
対外政策では、国際連帯主義に基づく「全面講和・永世中立」を主張し、ソ連・東欧との貿易促進や日中国交回復にも取り組んだ。亡くなったのは1968年で、82歳だった。

このようなバックボーンを持つ政治家であったがゆえに、北村は国会の場で「人的資源」の発想を根本から批判したのではなかろうか。
戦後、北村のように国会で「人的資源」批判の発言をした議員はほかにも複数いる。

たとえば1948年3月18日の衆議院本会議で、自由党議員の八木一郎が、「日本は今、敗戦のもたらしたこの焼野原のみじめな生活の中から、光明ある平和日本の建設のために新しい時代に切りかえなければならない」と述べ、
そのためには「科学技術を尊重し、勤労を尊び、文化国民として国家生活に深い理解」を持つ必要があり、「あの戦争中のように、行き過ぎた超国家主義のもとに、命も物も捨てるような人的資源豊富だなどと言って、あのとりざたされた考え」を捨て去らねばならないと訴えている。

しかし一方で、「人的資源」という言葉を肯定的にとらえる発言も現れてくる。それは主に、戦争で疲弊した日本経済をいかに復興させるかという問題をめぐる議論においてだった。1950(昭和25)年1月26日の衆議院本会議で、民主党議員の有田喜一が当時の首相吉田茂に対して次のような質問を発している。
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