沙里院駅前で部隊の移動を待つ末端の若い兵士たち。まともにて食べていないのせいなのか、ぼーっとした様子で精気が感じられない。(2008年10月 シム・ウィチョン撮影)

沙里院駅前で部隊の移動を待つ末端の若い兵士たち。まともにて食べていないのせいなのか、ぼーっとした様子で精気が感じられない。(2008年10月 シム・ウィチョン撮影)

生活に追われる若者の不安、恨み、そして失望 5
取材・整理 リ・ジンス(二〇〇九年六月取材)
取材者からの若干の補足 リ・ジンス
不安
二人の生活のサイクルは、一切余裕を持つことが許されない、ぎりぎりのところで回っている。食べることの他には何もできず、その食べることすらも朝起きた段階では保障されていない、まさしくその日暮らしである。

しかも物価が上昇したり、現金収入が少しでも減ったりしたら、そんな暮らしのサイクルさえも維持できなくなってしまう。まさに一寸先は闇といった生き方だ。うつむき加減に疲れきった様子で話す二人の姿から、先行きをまったく見通せない強い不安を抱いていることが伝わってきた。

インタビューをしたのは六月であったにもかかわらず、連日の雨により、昼の気温は二〇度を切って寒かった。そんな天候の中、薄手のワイシャツとズボン一つで一週間歩き通し、豆満江を越えてきたチェ・スミさんは道中何を思ったであろうか。一〇年近く前に他界した父親が買ってくれた服のぬくもりについて聞いてみたかったが、ここでは叶わなかった。

怒り
ただでさえ苦しい生活に追い討ちをかけるような「一五〇日戦闘」に対しては、語るに値しないといった反応を、チェ・スミさんは示した。配給をくれるのならばまだしも、食事も出ない労働に狩り出されては、生活は困る一方だというのである。これはまさにその通りで、市場を中心にかろうじて維持されてきた民衆の商行為(労働)→収入→消費のサイクルが、政府肝煎りの強制的な総動員運動によって蝕まれているのがよくわかった。民衆の生活に対して責任を持たず、代案を示さず、一方的に命令するやり方に、二人は共に強い怒りを覚えているのであった。

怒りといえば印象的だったのは、二人がともに「金持ちの奴ら(トニマヌンノム)」という表現をしたことだ。自然に口をついて出てきたことから、この「金持ちの奴ら」は日常的に使われている言葉なのだろう。これは北朝鮮社会で半ば定着してしまった新しい身分制に対する怒りの表現だといえる。つまり「金持ちの奴ら」にはさらなる金儲けのチャンスがあるが、貧乏人はいつまでたってもなんの発展も望めないという、本来社会主義にあるまじき階級格差に対してやるせなく感じ、そして怒っているのである。
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