第2回 住宅地の路地には露天商が並ぶ
平壌の住宅街の中は、ずらりと露店が並んでいた。
リ・ソンヒは寺洞(サドン)市場を目指して、住宅地の中の路地を歩いていく。道端では、多くの女性たちが個人で様々な商品を売っていた。これが平壌の普通の庶民の日常の姿である。
(撮影 リ・ソンヒ 平壌・寺洞(サドン)区域 2008年12月 02分03秒)

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寺洞区域は平壌市の中心を流れる大同江(デドンガン)の南東側に位置する。区域には取り立てて高い建物もなく、四~五階建てのアパートがぽつぽつと建つ程度だ。道路も未舗装が多くインフラも整っておらず、平壌の中では遅れた地域の一つに数えられている。

二〇〇七年まで隣の船橋(ソンギョ)区域で生活していた脱北者によると「平壌の人間であっても、寺洞区域に住んでいるというと『村から来た』と言われる」のだという。平壌では郊外・外れのイメージが強い、労働者の居住地区である。
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動画 (02分03秒)  (C)ASIAPRESS

20110315pyonura_02_01露天の食べ物屋で女性が腹ごしらえをしている。パンや餅などが売られている。写真手前のタライに入っている湯気の立った食べ物は何か不明。

 

 

20110315pyonura_02_02冬を迎えて大きく育った白菜を売っている。ひとつ250ウォンだという。副食物の乏しい北朝鮮では家で漬ける自家製のキムチは大切なおかずである。
ひと冬にトン単位のキムチを漬け、涼しい地下室や地面に埋めて熟成させながら1年間食べ続ける。

 

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平壌東部の地図(写真)[google Mapより]
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九〇年代後半の社会混乱の中で、平壌でも多くの餓死者が発生した。その後も今日まで経済の復旧は成らず、最も優待される平壌ですら食糧配給は遅配欠配が日常茶飯事だという。
政府の言うことを聞いて配給だけを待っていたのでは飢え死にしてしまう。そんな中で平壌市民たちも、めいめいが創意工夫して商売に立ちあがった。

寒空の下で、質素な防寒着姿で地べたに座ったり立ったりしたまま商売をしている女性たちを「貧しく可哀そう」な人たちだと見ると、北朝鮮社会を見誤ることになる。
彼女たちは統制が厳しい平壌にあって、経済的に自立して暮らしていくことができる唯一の方法である商売を、しんどいながらも喜んでやっているのだ。それは、働けば働いただけ実入りが増えるからであり、商売こそが豊かになれる唯一のチャンスだからだ。

彼女たちの働く姿は、一定の「経済活動の自由」を勝ち取って懸命に生きている姿だと捉えるべきだろう。

平壌(ピョンヤン)――そこは、指導者金正日総書記が住む朝鮮民主主義人民共和国の「革命の首都」であり、首領故金日 成主席の生家のある「聖地」である。それゆえ、平壌は常にソウルよりも美しく発展した都市でなければならなかったし、そのように見えなければならなかっ た。塵一つ無い広々とした通りと広場、整然とした高層アパート群、そしていつも笑顔で幸福そうに街を歩く清楚な身なりの人民たち......。

これまで外国メディアや観光客が訪れて目撃、撮影した平壌の姿も、こういった北朝鮮当局が伝えるものと大差なかった。外部の者には、平壌の中を自由 に動き回るチャンスは微塵もなく、原則として金正日がお通りになる「一号道路」の内側の姿だけしか見ることが出来なかったからだ。

本誌記者のリ・ソンヒは、2008年の12月と2009年の1月、「一号道路」の外側に広がる平壌の日常を撮影することに成功した。外部世界の者がこれまで見ることのできなかった「意図的に隠されてきた」空間をお伝えする。

一号道路について

金正日が直接関わる事項に対しては、すべからく「一号」という接頭語が付される。例えば「一号行事」と言えば、金正 日が直接参加する行事のことで、「一号列車」は金正日が乗る列車のことだ。「一号道路」とは金正日が通る道路である。これらの道路は、常に舗装され、きれ いに整備されていなければならないことになっている。平壌の中心部を走る「一号道路」の内側のエリアは、どこを見ても美しく整備された光景だけが目に飛び 込んで来るように設計されているので、平壌を訪れた外国人は、写真でもビデオでも大した制約なくそこを撮ることができる。

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