和田乙子さん

◆トンネルに避難

「この津波と、あの艦砲だけは忘れない。あの世に行っても頭から離れないでしょう」
釜石市甲子町の有料老人ホーム。和田乙子さん(82)はそう言って涙ぐんだ。
同市鵜住居(うのすまい)の家を見に帰れたのは津波から100日後。家も、実家も、故郷の町並みも押し流されていた。「その場でわんわん泣きました」

津波と66年前の焦土が和田さんにはダブって見える。当時は大槌高女1年生。製鉄所に学徒動員され、重いレンガ運びに勤しんだ。7月14日、逃げ込んだ嬉石町のトンネルには「連合国軍の捕虜や朝鮮人、いろんな人たちが、敵味方なく入っていた」という。
空襲警報が解除され、泣きながら外に出た。両側は火の海。国鉄釜石駅周辺の壕から、無残な遺体が次々に運び出されていた。

戦後教壇に立った和田さん。退職後も、請われて県内各地の学校などで体験を語ってきた。
3年前に手術をしてからはリハビリを重ねている。3月いっぱいで自宅に戻るつもりが、その矢先の震災。死者行方不明者が約1300人に達した釜石で、突出して被害が大きかったのが鵜住居だ。
和田さんは新聞の一覧で地元の友人知人の名前を数えた。270人にもなったという。

千田ハルさん

◆押入れの明暗

千田ハルさん(88)=釜石市中妻町=は当時21歳。製鉄所のタイピストだった。7月14日の艦砲は、壕にしゃがみこみ、目と耳を押さえ口を開け「当たらないよう」祈った。
「でも、だんだん麻痺してくる。友達と一緒にお弁当を食べたの。ドカーンの間に」
外では地獄絵図が展開されていた。街は焼け落ち、製鉄所のシンボルだった煙突5本はへし折れた。千田さんは翌日、家の焼け跡で機銃掃射にも遭い九死に一生を得ている。

「操縦士が笑っていたという証言もありますね。家では優しい人の心もそこまで追い込まれる。戦争の罪悪です」
45年8月9日昼、釜石は2度目の艦砲射撃に見舞われる。破壊された高炉の再開を翌日に控えた日のことだった。

市郊外の疎開先。千田さんは押入れに入ったが、甥を抱いて山に逃げ、夏草に身を隠した。手で土を掘り顔を埋めた瞬間、空から土が降り注ぎ、気絶した。隣の畑に着弾。飛び出した押入れは、砲弾の破片が無数に突き刺さっていた。

この日の攻撃は英軍も参加。製鉄所やその社宅などに2800発を打ち込んだ。弁当を分け合った同僚は、やはり押入れに逃げ込み、弟を抱いたまま直撃弾で亡くなった。
市の記録では死者750余名。千田さんらは1000人を超すと見る。多くは民間人。捕虜や強制連行の朝鮮人も含まれていた。遺体は寺の境内や河原で荼毘に付された。近辺には長く、死臭がこびりついていたという。
(つづく)
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