新宿ニコンサロンで「仮開催」された写真展では、金属探知ゲートが設置されて来場者の身体・持ち物検査が行われていた (2012年6月28日 東京・新宿ニコンサロンで/撮影:綿井健陽)

新宿ニコンサロンで「仮開催」された写真展では、金属探知ゲートが設置されて来場者の身体・持ち物検査が行われていた
(2012年6月28日 東京・新宿ニコンサロンで/撮影:綿井健陽)

 

◆「政治性」のない写真は存在しない
もし、ニコン側が「脅しや抗議してくる連中は気にしないでいいですよ。一緒に頑張りましょう」とでも、安世鴻に伝えて、写真展の準備をそれまで通り進めていれば、本人も周囲も対応は全く違っていただろう。ニコンが自ら決めたことを淡々と実行していれば、右派連中の抗議や嫌がらせにさらされる彼らもいわば「被害者」だったはずだ。

写真の政治性を問題にするのであれば、「すべての写真は何らかの政治性を含んでいる」としか定義できない。政治性のない写真はこの世に存在しない。それが風景写真でも、動物写真でも、防犯カメラの写真でも、どんな写真であっても、あるいはそれが映像や絵画であっても、何らかの「政治性」から逃れることはできない。単に、「特定の政治団体と関連している」「政治活動に携わっている」といったことではない。

個々の人間の内面に関わる「政治性」とその表現作品を切り離すことは不可能である。写真を撮る人、写真に映っている人や物、写真を映されたときの状況、あるいは映っていない人や物、その写真が掲載された媒体、構図、写真説明、そして、その写真を見る人まで、それらすべてに何らかの「政治性」は必ず含まれている。その何らかの「政治性」が、「ある、ない」という判断もまた、「政治的」でしかない。

ニコンサロンで展示をする写真をこれまで選んできたのは、「ニコンサロン選考委員会」(当時の選考委員は、土田ヒロミ、大島洋、伊藤俊治、北島敬三、竹内万里子の5人)だ。もし彼らが「政治性」を理由に、ある写真作品を選ばなかったとしても、それは「選考委員会が判断した結果」としか言えない。それは選考委員による「政治性」だが、そこに応募した撮影者はその選考結果を受け入れざるを得ないだろう。

しかし、安世鴻の写真は、その選考委員会が審議・決定した作品であり、それをニコンは開催1カ月前になって突如、中止を通告・発表したのである。
これこそがニコンによる何よりもの「政治的」行為であり、一写真家に対する不当な「政治的」介入でしかない。出品者を切り捨て、中止理由を無理筋で作り出し、これで右派団体の標的にならずに乗り切れると目論んだ。

もし今回の写真展が、著名な日本人写真家が撮影した作品であっても、ニコン側は同じような対応や説明をしたであろうか。相手が韓国人写真家で、かつ「慰安婦問題」が関わっているため、ニコン側は中止理由を安世鴻に押しつけたのだ。それが、今回のニコンの説明・対応で最も重い"罪"だ。これによって、ニコンは、すべての立ち位置と拠りどころを失った。(敬称略)
(続く)
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◆写真家・安世鴻氏 写真展とインタビュー(動画・6分)大阪
◆写真家・安世鴻氏 写真展と記者会見 ニコンへの抗議文書手渡し(フル動画・58分)大阪
~この記事は、2012年9月に発売された『検証・ニコン慰安婦写真展中止事件』(産学社 / 新藤健一・責任編集)からの転載です。

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