オレンジ色の救命チョッキを着た中国人男女が乗ったボートや、朝鮮のチョゴリ姿で花束を手に、「金日成将軍の歌」を歌う女性たち(たぶん中国の延辺朝鮮自治区の人たち)が乗った旅客船が、私たちの船の横を通り過ぎるとき、私の頭には、あの人たちはどんな思想を持って、どんな生活をしているだろう、あの向かいにある中国はどんな国だろう、という好奇心が芽生えました。
後にこの鴨緑江を渡って中国に脱出するまで、鴨緑江は私にたくさんの思い出を作ってくれた、忘れられない河なのです。

新義州市は、中国と接する国境都市、関門であり、中国からの訪問客も多いだけに、比較的道路や公共施設が整備されたところでした。中心地には金日成主席の銅像が立つ駅前や広場、公園、そして恩徳園(ウンドクウォン:プールやサウナなどを完備したサービス施設)や歌舞団(カムダン:映画や演劇などが観られる施設)、商店、病院や大学なども立派に整備された街でした。

その中心地から少し離れた(郊外ではない)、長閑なところにA洞(注:行政区域の一つ。市→洞→班、洞は区に当る)があり、私の父方の祖父母と数少ない親戚一同はそこに住んでいました。

私の祖父母と家族がA洞に住み着いたのは、日本から北朝鮮に帰国し、新義州市に配置されたとき、ちょうど新築した3階建てアパートがA洞にあったからだそうです。
そのアパートは、一緒に並んでいる赤レンガ作りのアパートとは対照的に、セメントで造られ明るい黄緑色をしており、部屋の作りも新しかったのです。私の祖父母は、その2階1号室と2号室の2世帯分(2DKと1DK)と、アパートの前の倉庫と車庫をもらいました。

祖父母は、息子たちが結婚する度に、近くの家を買って新居を準備してあげたのですが、祖父母自身は、私が18歳で北朝鮮を出るまで(おそらくその後も)、ずっとその家に住んでいました。祖父母とその息子たち、北朝鮮での我が家の歴史が、そこから始まったのです。

その北朝鮮での暮らし以前の我が家の歴史については、私にはよくわかりません。私の祖父母や両親、親戚の大人たちは、私や子供たちにそのような話をするのを避けました。それだけでなく、大人たちにそのような話を聞くのも、外でそのような話をするのも、厳しく叱ったのです。

そのため、私は、大人たちが隠しておいた写真や、北朝鮮では買えない家財道具など、そして祖母の口から時々発せられる日本語や、酒に酔った祖母が話す故郷の話などといった、ほかとは違う我が家の暮らしぶりから、私は「帰国者子女であることを知ったのでした。
(注:1959~1984に日本から北朝鮮に帰国した在日朝鮮人のことを帰国者、その子供たちを帰国者子女と呼んでいた)」(続く)
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