鴨緑江で荷役作業をする新義州の女性労働者たち。 93年7月 撮影:石丸次郎 (C)アジアプレス

鴨緑江で荷役作業をする新義州の女性労働者たち。 93年7月 撮影:石丸次郎 (C)アジアプレス

◆北朝鮮への帰国
精一杯生きた祖父母には、私が知らない、生活感に満ちた物語がたくさんあったと思います。そしてその物語とともに時は流れ、祖父母は日本での生活を満喫していました。

子供たちも高校を卒業し、それぞれ自分の道を探して町を出て行きました。親の膝元を離れた子供たちの一挙一動を把握し、成人した子供たちを自分の思い通りに動かせるほどの力までは、祖母にはありませんでした。
そんな中で、二人の叔父(長男と三男)が北朝鮮に帰国しました。帰国した時期と理由は定かではありませんが、そのことがあった数年後の恐らく1978年に、長女の伯母を除いた家族全員(祖父母、私の父、四男の叔父)が日本を離れ、北朝鮮に帰国しました。

1978年頃と言えば、一時期活発に行われた帰国事業(※)が盛りを過ぎ、いまさら帰国する人もそういない時期でした。そんな頃に何故家族全員が帰国をしたのかは、今でも私の中で疑問符がついていることです。祖父が決心したことだそうですが、満足していた当時の生活を諦めて、祖父の決心に従った祖母の気持ちはどんなものだったのか......、今でも不思議でなりません。

北朝鮮に帰国した私の祖父母とその息子たちは、北西部にある都市・新義州市に配置されました。国に寄付をしたことが作用したのか、とても良い待遇を受けました。

実は、祖父母が成した財産は相当なものだったそうです。家族全員が帰国するだけに、将来のことを考えた祖母は、現金や財産を持っていける限り持って行ったといいます。その家財道具は、国からもらった家や倉庫に納まりきれず、ある工場の倉庫に預けるほどだったそうです。
祖父母は、自身が使うものに加え、息子4人が結婚する際に持たせるものまで、家財道具を5セットずつ準備して持っていきました(帰国事業の最初の頃にあった財産制限が、そのときはなかったそうです)。テレビや冷蔵庫、洗濯機や扇風機、ミシンなどの家電製品だけでなく、自転車、布団や布製品、洋服や下着、嫁にあげるネックレスや指輪まで準備して行きました。

貴金属や腕時計、そしてメガネ(私の父は重度の近視でした。)などは、数十個ずつもっていって、腕時計やメガネは、父が酒に酔って失くす度に、新しいものを渡していました。そして、祖父が乗る車も持っていったので、特別に車庫ももらいました。当時は、自家用乗用車はとても珍しく、幼い孫たちには自慢の一品でした。

私たちのもう一つの自慢は、政府からもらったソンムル(プレゼント)、テレビでした。祖父母は、国にトラックや農機具を寄付した代わりに、国から「木欄天然色テレビ」というカラーテレビを授与されました。祖父は勲章ももらいました。今でこそ、そんなものに何の意味があるのかと叫びたい気持ちですが、当時の私たちには、自分たちの家族は国に貢献した功労者だと、自慢に思えたのです。(続く)

※在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業
1959年から1984年までに9万3000人あまりの在日朝鮮人と日本人家族が、日朝赤十字社間で結ばれた帰還協定に基づいて北朝鮮に永住帰国した。その数は当時の在日朝鮮人の7.5人に1人に及んだ。背景には、日本社会の厳しい朝鮮人差別と貧困があったこと、南北朝鮮の対立下、社会主義の優越性を誇示・宣伝するために、北朝鮮政府と在日朝鮮総連が、北朝鮮を「地上の楽園」と宣伝して、積極的に在日の帰国を組織したことがある。朝鮮人を祖国に帰すのは人道的措置だとして、自民党から共産党までのほぼすべての政党、地方自治体、労組、知識人、マスメディアも積極的にこれを支援した。
著者紹介
リ・ハナ:北朝鮮・新義州市生まれ。両親は日本からの「帰国事業」で北朝鮮に渡った在日朝鮮人2世。中国に脱出後、2005年日本に。働きながら、高校卒業程度認定試験(旧大検)に合格し、2009年、関西学院大学に入学、2013年春、卒業。現在関西で働く。今年1月刊行の手記「日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩」は多くのメデイアに取り上げられた。
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