◆ 北朝鮮で医学大学へ
私が6歳か7歳の冬だったと思います。夜の晩酌で飲みすぎた父が、珍しく、めったに口にしない日本での話をしてくれました。他の話はほとんど憶えていませんが、話の終盤に父が話した内容は今も憶えています。
父は、まるで自分に言い聞かせるような口調でつぶやきました。

「嫌々乗った帰国船で、朝鮮のビールを飲んだ。ところがそのビールがおしっこのようにまずかった。そのとき僕は思ったんだ。僕の人生は終わった、と」
その話が本当であることを証明するかのように、父はその後の人生を、廃人のように生きました。無表情で、無感情で、無口な、生きる意義を忘れた人間になって悲しい人生を送り、枯れ果てました。

父は、北朝鮮に来た後、市内にある医学大学に入学しました。朝鮮語を知らない父には、社労青組織(社会主義青年同盟、後に金日成社会主義青年同盟に。北朝鮮の青年が強制的に加入させられる青年団体)の同級生が付きっきりで朝鮮語の習得を手伝い、またいろいろな動員や活動も免除されたそうです。努力家の父は、朝鮮語と医学を同時に勉強しながら大学に通ったのです。

そんな父を気遣った祖母は、日本(住んでいた長崎の知り合いだったそうですが、定かではありません)に一度だけ手紙を送りました。医学に関する書物が必要だからと。そうして日本から一度だけ届いた荷物は、父が勉強するための医学の本でした。そのときの父の喜びようといったら、後にも先にもないほどのものだったそうです。

それらの本は、どれもが分厚いカバーと光沢紙の紙で、カラー写真が載っている、とても良い本でした。私には日本語で書かれていたためよく分からなかったのですが、人の内臓の写真などが載っているのを見て、気持ちが悪くなったことがありますが、父は、それらの本をとても大事にして、医学の勉強に励んでいました。

※在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業
1959年から1984年までに9万3000人あまりの在日朝鮮人と日本人家族が、日朝赤十字社間で結ばれた帰還協定に基づいて北朝鮮に永住帰国した。その数は当時の在日朝鮮人の7.5人に1人に及んだ。背景には、日本社会の厳しい朝鮮人差別と貧困があったこと、南北朝鮮の対立下、社会主義の優越性を誇示・宣伝するために、北朝鮮政府と在日朝鮮総連が、北朝鮮を「地上の楽園」と宣伝して、積極的に在日の帰国を組織したことがある。朝鮮人を祖国に帰すのは人道的措置だとして、自民党から共産党までのほぼすべての政党、地方自治体、労組、知識人、マスメディアも積極的にこれを支援した。
著者紹介
リ・ハナ:北朝鮮・新義州市生まれ。両親は日本からの「帰国事業」で北朝鮮に渡った在日朝鮮人2世。中国に脱出後、2005年日本に。働きながら、高校卒業程度認定試験(旧大検)に合格し、2009年、関西学院大学に入学、2013年春、卒業。現在関西で働く。今年1月刊行の手記「日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩」は多くのメデイアに取り上げられた。
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