(参考写真)赤いスカーフが少年団の証。咸鏡北道の中学校の少年団幹部を対象としたキャンプにて。2006年7月 撮影:李準(リ・ジュン)

(参考写真)赤いスカーフが少年団の証。咸鏡北道の中学校の少年団幹部を対象としたキャンプにて。2006年7月 撮影:李準(リ・ジュン)

「私、北朝鮮から来ました」記事一覧

第21回 つかの間の青春(下)
○ギターと歌は友達
ファッション以外に私たちが興味を持っていることと言えば、音楽がありました。
停電が多くてテレビを見ることもろくにできないし、娯楽が少ない私たちにとって、歌とギターはとても大事な娯楽の手段でした。今思えば、漠然としたものではありますが、私たちは歌を通して自由な何かを切実に求めていたように思います。

高等中学校4学年に復学していた時期の私は、授業はサボって、遊んでばかりのダメな生徒でした。酒を飲んだり、タバコを吸ったりというようなことはしなかったのですが、決して優等生ではなかったということは確かです。

私の母は、学校で体育を教えたことのある体育会系の人で、自分の子どものしつけに関しても容赦のない人でした。私たち家族が農村に強制追放されることになってから、戸籍を取り戻すために奮闘していた母は、精神的に疲れていたこともあって、私と弟に対しても以前より厳しくなっていました。一度母を怒らせたら、少し大げさになりますが、「半殺し」になることを覚悟せねばならないほど、私は、母が怖かったのです。

そんな母の目を盗んでまで遊びに夢中になっていたのは、当時の環境や私の年齢なども影響していたのですが、心のどこかで将来を悲観していたのもあったと思います。学校に通っているとはいえ、戸籍もない状態では卒業証書ももらえないだろうし、後先どうなるかもわからない。いつ農村に連れていかれるかも知れない今の状況を忘れたいという、悲しい理由も含まれていました。

門限6時を守り、学校に母が呼ばれないように担任の先生と「交渉」し、遊ぶ時間を増やすための「つじつま合わせ」に必死になっていた私が、心を休めるときがあるとすれば、ギターを弾きながら、自分の歌に「酔いしれている」ときでした。ギターは、そして歌は、私がつらいときにいつもそばにいてくれて、喜びも悲しみも代弁してくれる大切な友であり、なくてはならないものでした。

今のようにパソコンやiPodやMP3、カラオケなどがなく、停電のせいで録音機(カーセットテーププレーヤー)もろくに聞けない時代に、ギターはとても重宝されていました。だいたい、どこのクラスでも、どこのグループでもギターを持っている者がいて、数人が集まるときは、決まってギターが登場し、数人が回しながら弾いたり、歌ったりするのです。

そのときは、集まってギターを弾きながら歌う先輩が、どうしてあんなにもカッコよく見えたものか...。
北朝鮮では、歌のほとんどが金父子を賛美し、忠誠を誓う歌ばかりでした。でも、私たちは、そんな堅苦しい曲よりも、恋愛や学園生活を謳った歌を渇望していました。数少ない、愛や生活をテーマにした歌も、子供だから歌ってはいけないとされていたと思います。。日本のカラオケリストにも載っている「フィパラム(注:「口笛」恋愛をテーマにした歌)」がブームになったりもしましたが、たしか学校(当時私は小学生でした)では禁止されていた記憶があります。
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