◇ 「中国へ逃げる」って、どういうことなんだろう

中国という国のことを想い描いてみる・・・。

「中国ね・・・、噂では、中国は半社会主義国家で、資本主義経済も導入されているんだって。貿易が行われるのをみても、新義州市内に住んでいる華僑たちの生活をみても、自由で豊かな国であることは間違いないと思うけど・・・」
「そう言えば、ここでは、中国との間で貿易や密輸が行われているという話は聞いても、中国に逃げるという話は聞いたことがないな。大丈夫かな・・・」
当時、新義州市から中国へ脱出する人はほとんどいませんでした。新義州と向かい側の中国丹東市の間には鴨緑江下流が流れていて、船がないと渡れないほど川幅が広く、警備も大変厳しかったのです。物理的に難しい部分もあって、そういう発想がなかったのかもしれません。

また、新義州は早くから中国との貿易が盛んに行われていたこともあってか、市場も活況を呈し、生活水準も(国内では)悪い方ではなかったと思います。
大飢饉に見舞われたといわれる「苦難の行軍」の時期、そしてその後、確かに人々の生活は厳しくなりましたが、新義州は他のところに比べるとまだ活気があったと思います。

巷の噂では、咸鏡道(他県)の方では、草を入れたお粥を食べる人が増え、山の木の皮が全部剥がれて白くなったとか・・・。
市場に住み着いているコチェビ(方言からみて他県の子供たちがほとんどでした)の様子や、軍隊に出て栄養失調を患って帰ってくる友達を見て、他のところはもっと大変な状況にあることはわかりました。

新義州では早くから中国の商品が市場で売られ、あちこちに屋台が登場するなど、人々は、市場を大いに利用して逞しく生きていました。
税関を通して中国商品を輸入し、市場に卸す華僑たちや実際に市場で商品を売る人たち、外貨稼ぎに従事する人たちなど、それぞれが商売のルートを作り、以前(工場、企業所に出勤し配給と労賃をもらう生活)とは違う生活リズムが生まれていました。

私自身は、生活前線(日々の生活の糧を得るために働きに出ること)に出たことがないから詳しいことは分かりませんが、私が感じる限りでは、人々は新義州を離れて中国へというより、いま暮らす場所で懸命に生きることを当たり前に受け入れていました。

私も、強制追放という突然の出来事がなかったら、新義州を離れようなんて発想すらなかったかもしれません。でも、そのときの状況が最悪なだけに、中国へという話は、私には希望の光ともいえるものでした。

「よし、行ってみるのだ。どっちにしても今より悪くはならないだろう。農村に追放さえされなければ、どこでもいい。途中で死ぬことになっても、怖くなんかない・・・」

著者紹介
リ・ハナ:北朝鮮・新義州市生まれ。両親は日本からの「帰国事業」で北朝鮮に渡った在日朝鮮人2世。中国に脱出後、2005年日本に。働きながら、高校卒業程度認定試験(旧大検)に合格し、2009年、関西学院大学に入学、2013年春、卒業。現在関西で働く。今年1月刊行の手記「日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩」は多くのメデイアに取り上げられた。
リ・ハナ
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