タルビヤテ・モダッレス大学のモスク。どこの大学にもモスクはあり、大抵はバスィージ(体制派民兵)の学生事務所を兼ねている(撮影筆者・テヘラン・2007年)

タルビヤテ・モダッレス大学のモスク。どこの大学にもモスクはあり、大抵はバスィージ(体制派民兵)の学生事務所を兼ねている(撮影筆者・テヘラン・2007年)

 

◆イランで子作りを決意するまで

ラジオ局で働きながら、大学院に通う生活が続いていた。それは、学生生活を謳歌しているとは到底呼べない、まるで苦行のような日々だった。

1冊の文献を読むのに、クラスメート(全員イラン人)の数倍の時間を要し、それだけ苦労しても小さな評価しか得られない。実際、1タームに与えられ た課題図書10冊のうち、私は1冊読むのが精一杯だった。1ページ読むのに数え切れないほど辞書のページをめくり、2年前に買った辞書はもうボロボロだっ た。

そんな私が初めて教授に褒められたのは、1年目の後期授業が終わりに近づいた初夏のことだった。7世紀半ばにイスラム軍がサーサーン朝ペルシャ(イ ラン)を滅ぼしてから、ペルシャ全土にイスラム教が行き渡るまで、つまりイラン人がイスラム教を自らの宗教として受け入れるまで、どのくらいの時間がか かったのか。それを紐解く論文を自分で探してきて論評するという課題が与えられた。

文化の浸透や統治の進み具合は、出土した貨幣や手工芸品などから推し量ることが出来る。クラスメートの中には、イスラム帝国の経済・流通システムのイランへの拡大に関する貨幣学の論文を見つけ出してきた者もいた。

私が見つけたのは、イラン人の家系図における名前の変化から、イラン人のイスラム化の進み具合を論じている論文だった。多くの家系図を紐解くと、あ る時期から、イラン古来の名に代わって、アラブ風、イスラム風の名前が現れ始める時期があり、それをもってイスラム教の浸透と見なしている。それは、出土 品や文献を丹念に洗い出すという歴史学や考古学の正攻法に一味付け加えた、人の心理を読み解こうと試みるどこかジャーナリスティックなアプローチであり、 私は正直、この論文に感動した。

ちなみに、ラジオ局の仕事では、イランのイスラム化については、「イラン人は速やかにイスラムの教えを受け入れた敬虔な人々」ということになっている。
実際には、イランのイスラム化は2、3世紀のときをかけて、ゆっくりゆっくりと進んだ。そもそも侵略軍の宗教を進んで受け入れることなどありえないし、イ スラム教自体も異教徒に改宗を強いることを戒めていた。最初は各地の領主や地主が便宜上、そして異教徒が課せられる人頭税から逃れるために人びとが改宗を 始めた。だがそこから、人びとが自分の子供にイスラムの名前をつけるようになるまで、幾世代ものときが必要になることは言うまでもない。

私やクラスメートの発表は、そうした歴史上曖昧な事実を調査する様々な手法を学ぶためのものだったのだろう。イスラム共和国政府がどんな理想や願望を抱こうが、イランのアカデミズムは正常に機能していた。

あるいは、この授業が、「イスラム教徒は高位聖職者の教えに訳も分からず従う猿ではない」と発言して死刑判決を受けたこともある超リベラル派のアガジャリ教授によるものだからかもしれない(彼の死刑判決は、イランの改革派と国際世論の強い抗議により無効となった)。

アガジャリ教授は、クラスメート全員の発表を聞き終えると、特に誰を褒めるということもなく、授業を終えた。彼が私の発表を褒めていたと聞かされたのは、 それから何日もたって、たまたま用事で訪ねた教務課の主任からだった。それは、大学院に入ってから、努力がほんの少しだが報われたと思えた瞬間だった。そ れでも、この大学院生活が最終的に報われることはないだろうということは、自分でも良く分かっていた。
そんな、1年目後期授業がまもなく終わろうという頃、いつものように重い足取りで大学を後にした私は、やはりいつものように、大通りにかかる歩道橋を渡ろうとしていた。

長さ50メートル以上はあり、屋根が付いているので、歩道橋の上にはよく物乞いや物売りがいる。その日も、ときどき見かける男が敷物を敷いて、マッ チを売っていた。その男の娘なのだろう、今日は4歳くらいの女の子が一人、彼の脇にちょこんと座っている。汚れた浅黒い肌に、垢じみたボロを纏っている が、栗色の巻き毛にぱっちりとした目がかわいらしい女の子だった。

女の子は売り物のマッチを積み木代わりに積み上げて遊んでいる。父親が指でつついてそれを崩すと、けらけらと笑い転げて父親にもたれかかる。父親の 眼差しは慈愛に満ち、少女を包み込んでいる。横目で親子を見下ろしながらその場を通り過ぎた私は、少し涙がこぼれそうになった。心が疲れきっていたせいか もしれないが、それだけでもない。

私たち夫婦の間では最近、そろそろ子供がほしいなという空気がにわかに漂い始めていた。イランで仲良くなった、妻の友人の日本人女性が相次いで出産 を迎えたり、すでに子育てに励んでいる友人の姿を見ていたりしたせいもあっただろう。私も30代半ばを過ぎ、妻も出産を望むなら、あまり猶予のない年齢に 達していた。

だが、現実に目を向ければ、私は異国にあって何の生活の基盤もなく、ジャーナリストとしてスタート地点にすら立っているのかも怪しい。表向きの身分 は学生、しかも卒業の目処も立たないダメ学生だ。人の親になる資格があるのか、家族が増えてやっていけるのか、子どもを幸せにできるのか、などと不安は尽 きなかった。

その親子はとても幸せそうだった。歩道橋のその一角だけが小さな陽だまりのようだった。少女は、まるで世界で一番幸せな女の子のように見えた。子どもを愛することが出来れば、それ以外に、親になる資格も条件もいらないではないか。そんな単純なことを彼らは教えてくれた。

妻が身ごもったのは、それからわずかもたたない、夏休みの暑い盛りのことだった。

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