片山美津子さんは沖縄で戦死した父の軌跡を訪ね、慰霊碑へも足を運んだ(写真・片山さん提供)

片山美津子さんは沖縄で戦死した父の軌跡を訪ね、慰霊碑へも足を運んだ(写真・片山さん提供)

 

◇米軍との激戦の末、34歳で戦死した父

宗次郎さんは現地で編成された第62師団(通称・石部隊)の独立歩兵第15大隊に転属。部隊は山西省地区の警備にあたっていたが、44年夏、上海を出航し、那覇港に上陸する。第62師団が沖縄守備隊・第32軍に編入されたためだ。

このとき、兵士たちを運んだのは「対馬丸」など3隻の輸送船だった。対馬丸は折り返しに沖縄から疎開する700人あまりの児童と一般人約1000人を乗せて出航したが、8月22日未明、米軍の潜水艦の攻撃を受け沈没、犠牲者1476人を出している。

45年4月 1日、米軍は読谷(よみたん)から北谷(ちゃたん)にかけての海岸に上陸し、日本軍の司令部のあった首里城に向けて南進した。第32軍は、現在の宜野湾市から浦添市、那覇市にかけての高地に陣地を築いて迎え撃った。

当時の状況について、同じ独立歩兵第15大隊に所属していた三重県桑名市の近藤一さん(94)が2002年4月に東京都内で講演した際の要旨を入手することができた。

「第62師団は首里の北側を守備陣地としました。南部の島尻を24師団が守備し、最前線で戦った歩兵はあわせて3万人ほど。ほか海軍、戦車隊、砲兵隊など を入れて約10万人の兵力です。アメリカ軍は歩兵が18万6000人、海軍ほかを含めると54万人と太平洋戦争で最大規模の戦力を投入しました。(中略) 米軍は攻撃の前に『鉄の暴風』ともいわれた猛烈な艦砲、野戦砲砲弾を集中したあと、戦車を前面にたてて攻撃してきました。その日に攻略できないとわかると 一旦引き上げていき、次の日また砲撃したあとに攻めてくるというパターンで、4月8日まで激戦が続きました。一大隊の兵力(約1200人)70%までが戦 死したということです。9日の未明に米軍は嘉数の頂上を占拠し、私はこの時の戦闘で胸を撃たれて重傷を負い、野戦病院の壕に収容されました」

沖縄戦の資料によると、独立歩兵第15大隊は「西側を浦添市仲西から那覇市天久、東側を浦添市澤岻から末吉にかけてのラインに配属」され、「4月20、21日、浦添市伊祖地区の戦闘で3分の1の戦力を喪失し、22日には澤岻へ復帰した」とある。

澤岻は首里へ続く重要地区。米軍との激戦の末、宗次郎さんも無念の戦死を遂げたものと思われる。享年34だった。

「2歳の時に別れているから顔も声も覚えていないのです。でも、戦後69年たって父が眠っている近くまで来たんやなあと思うとホッとしたというか......複雑な思いでした」(つづく)
【矢野 宏・新聞うずみ火】

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