5月9日、大阪市で行われた「うずみ火講座」では、ベトナム戦争当時にアメリカ人脱走兵を自宅に匿った経験を持つ、映像ジャーナリストの小山帥人(おさひと)さんを招いた。当時の日米政府による過剰なメディア介入や、脱走兵を匿う多くの日本人がいたことなどを語ってもらうとともに、小山さん自身が収めた貴重な映像を公開した。(矢野宏/新聞うずみ火)

ベトナム戦争当時、在日米軍基地を脱走した米軍兵士を自宅に匿った経験を持つ映像ジャーナリストの小山帥人(おさひと)さん。映像を交えて当時の様子を語ってもらった(撮影・矢野宏)

ベトナム戦争当時、在日米軍基地を脱走した米軍兵士を自宅に匿った経験を持つ映像ジャーナリストの小山帥人(おさひと)さん。映像を交えて当時の様子を語ってもらった(撮影・矢野宏)

◆19歳の米兵「キャル」が我が家へ
翌68年3月に会社の先輩から「脱走兵をあずかってくれないか」と言われたのです。戦争は嫌だという人間が日本の平和憲法を頼って来ているわけですから助けないわけにも行かないと思い、引き受けました。亡くなった母が手帳にメモを残しており、脱走兵が我が家に来たのが3月2日で、3日間滞在して5日に次の人にバトンタッチしています。

映像を見ていただきましょう。やってきた米兵は19歳で、「キャル」と呼んでいました。すぐになじみ、16ミリカメラを回しても拒みませんでした。16ミリカメラでは音を取れないので、テープレコーダーを回し映像に音をかぶせています。
キャルは「中学で学校を辞めて独学で哲学や人類学などを勉強した」と言っていました。17歳で海軍に入り、67年にベトナムへ行き、海に落ちたパイロットを助ける仕事をしていました。左右にいた同僚が首や腕に銃弾を受けて殺されたそうです。

脱走した理由について、「命を破壊する戦争に反対する」「すべての米軍兵士に『このまま戦争を続けると自由を愛する全世界の人たちの敵になる。立ち上がれ』と言いたい」と話しています。

鉢巻をして日本酒を飲んで、いい調子ですね。コメディが好きで、チャップリンが好きだと言っていました。ずっと部屋にこもりきりだったので、「一度、外へ出たい」というので、危ないとは思ったのですが、夜中に京都の街へ連れ出しました。当時、外国人は珍しいので、サングラスをして、これはスナックですね。

これは我が家の風呂に入るところです。彼は190センチあるので、折り曲げて浴槽につかっていますね。彼は健康用具を持ち歩いていました。戦場でいろいろなことを経験したのでしょう、怖い顔になるときがありましたが、寝ている顔は10代の若者でしたね。
我が家で3泊したあと、車で迎えに来た人がいて、次の場所へ運ばれるところです。大阪郊外の新興住宅地で、大学関係者の家でした。これは声明を読み上げるところです。「脱走したことを家族が知ると、失望するだろう。帰りたいが、帰ると、この戦争を止めさせたいという目的が達せられない」と言っていました。

ここで映像は終わりですが、ベ平連の関係者が入手した米公文書などから、彼は大阪、京都、神戸など関西14カ所を転々としたあと、68年4月に北海道の根室からカニを採る漁船でソ連に密航し、6月にはスウェーデンへ行くのですが、結局、父親が迎えに来て米国へ帰ることになります。
脱走というのは「無許可除隊」とか「不名誉除隊」と言われ、車の免許やパスポートが取れないとか、クレジットカードが作れないなど、脱走兵に対する扱いは厳しいようです。

脱走兵をかくまった日本人は1000人ぐらいいるのではないでしょうか。言葉の問題もありますし、当時、外国人は珍しくて目立つ。携帯電話もありませんしね。車がないと移動できないなど、あずかった人は苦労したと思いますよ。ただ、特筆すべきは誰も密告しなかったということです。誰も捕まっていません。非合法といわれましたが、米兵は治外法権で日本中を自由にどこへでも行けるのです。

自由に行ける人をどう助けようが罪にはなりません。
68年は大きな節目の年でした。フランスで5月革命があり、いろんな青年が決起し、新しい考え方が出てきた時代でした。いろいろな困難はあったのですが、国境を越えていくということはいろんな縛りから自由になること。脱走米兵を助けることで、自分自身も国の縛りから自由になっていったような感じでしたね。人生においても大きな意味を持っていたと思います。(終わり)

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