◆ 輸送船に乗り組んで戦火の海へ

連載第27回で登場した元航海士の真田良〔さなだまこと〕さんの同僚だった戦没船員たちの名前も、「戦没船員の碑」に安置された名簿に載っています。

「多くの船乗りの仲間が海に消えてゆきました。いわば私は死にはぐれて生き残ったようなものです」と、真田さんは重い口調で語るのでした。

真田さんの歩みをたどってみましょう。

「生まれたのは1917年、大正6年で、神奈川県の山北町です。地元の小学校を出てから、小田原中学に通いました。生家はお寺で、檀家も多いし、長 男なので寺を継げば静かに暮らせるわけですが、当時は『お国のために、天皇陛下のために死ぬこと』を、子どものときから教育勅語などを通して、家庭や学校 や近所で教え込まれて育った時代です」

「だから、その時代の雰囲気のなかで私は、若者が寺でおとなしくお経を読んでいる場合ではない、と思ったんです。そして、日本には資源がなく、富国 強兵のためには海外から物資を持ってくるしかない、海運が重要だ、自分は船乗りになってお国のために尽くそうと、東京高等商船学校に進みました。1934 年、昭和9年のことです」

真田さんは若き日の船員時代を思わせるはっきりした声で、往時を振り返りました。

「一方で、船乗りになれば外国にも行けて、いろんな国のおいしいお酒も飲めるだろうと、いささか期待していたのも事実です。しかし、商船学校を卒業 して日本郵船に入った昭和14年には、当時、支那事変と呼ばれた日中戦争が続いており、やがてアメリカ、イギリスとの戦争も始まるわけです」

日本郵船の氷川丸に乗って北米航路を往き来し、サイパンやテニアンなど太平洋の島々を結ぶ南洋航路にも乗り組んでいた真田さんに、戦火の海への出立が訪れたのは、1941年(昭和16年)の秋でした。

当時、真田さんは日本郵船の賀茂〔かも〕丸の三等航海士でした。その船が陸軍御用船すなわち輸送船として徴用され、それとともに乗組員も船ごと徴用されたのです。国家総動員法にもとづく船員徴用令(1940年10月公布)によるものでした。

すでに船員に対しては、国家総動員法に基づく船員職業能力申告令が1939年1月に公布されていました。

それによって、船員と海技免状者と無線通信士資格者は、その居住地などを管轄の官庁に申告することを義務づけられました。

同年同月には、国家総動員法に基づき、16歳以上50歳未満の男性すべてに、それまで従事した職業と卒業した学校を、国営の職業紹介所長に申告することを義務づけた国民職業能力申告令も公布されました。

政府は、船員をはじめ国民を国家総力戦に必要な労働力、「人的資源」として動員するため、国民の個人情報を把握していたのです。

真田さんの乗り組む賀茂丸は、鉄橋や鉄路を建設する鉄道部隊を大阪港で乗せて、当時、仏印〔ふついん〕(フランス領インドシナ)と呼ばれた、現在のベトナムに向かいました。

その部隊をベトナム南部のサイゴンで下ろし、カムラン湾に停泊中、1941年12月8日のアメリカ、イギリスに対する開戦を迎えたのでした。 続きを読む>>

安倍政権の「戦争法案」を考える(3) へ | 「戦争の足音」一覧

書籍 『検証・法治国家崩壊 ~砂川裁判と日米密約交渉』 (吉田敏浩)

★新着記事