石綿被害について国は責任回避のために嘘と隠ぺいの主張を繰り返してきたが、2014年10月、大阪・泉南地域のアスベスト被害者やその家族らが国を訴え た「泉南アスベスト国賠訴訟」で、最高裁は国の責任を断罪して終結した。第17回は「アスベスト被害の原点」とされるこの訴訟の最高裁判決後に残された問 題について考察する。(井部正之)

30年以上前に麻袋再生の事業所だった場所。当時、一部の麻袋にはアスベストが含まれていた。現在は売り地になっていた(2014年11月撮影:井部正之 ※写真の一部をぼかしています)

30年以上前に麻袋再生の事業所だった場所。当時、一部の麻袋にはアスベストが含まれていた。現在は売り地になっていた(2014年11月撮影:井部正之 ※写真の一部をぼかしています)

 

◆子どものころから工場に出入り、手伝いし、アスベスト曝露

2014年11月、大阪府堺市中区の住宅地。車がかろうじて1台通れるくらいの、うねうねと蛇行した道の左右には古い家屋と今風の家が混在して建ち並ぶ。

以前近所に住んでいた熊取絹代さんが言う。
「ここから先は全部『ゴロス』をやっていたところですよ」

麻袋はかつて俗称で「ドンゴロス」と呼ばれていた。「ゴロス」とは、そこから転じた言葉で、この地域で営まれてきた麻袋の再生業を指すのだという。

「ゴロス」ではしばしばアスベストが入っていた麻袋も再生されてきた。

現在は更地になっている工場跡地まで案内すると、熊取さんらはこう話した。
「私たちは『ふるい』って、いうてたんですけど、象の鼻みたいな大きな掃除機の口があって、そこでバサバサと振るっていたんです」

そう麻袋に付着したほこりを集じん装置に吸わせて除去するようすを身振りで示す。

熊取さんの父親は、当時この界隈では"大手"だったという麻袋再生業者・西本商店の分工場で働いていた。そして石綿肺を発症し、1985年に肺がんで亡くなった。アスベスト関連業務による労災認定も受けている。

熊取さん自身も子どものころから工場に出入りし、手伝いもしてきた。
休憩時間には集じん装置の中に頭から入って「ゴミ出し」作業をした。
ダクトの中に付着したアスベストをホウキで掃き落としたり、下に置かれた容器にたまったアスベストを麻袋に詰めたり。いずれも高濃度のアスベスト粉じんに曝露する作業だが、10円の駄賃欲しさの「手伝い」であった。

現場に案内してくれたのは熊取さんのほかに2人の住民がいた。その2人も家族や親戚が麻袋再生業に携わり、アスベスト関連疾患で労災認定を受けている。家業の「手伝い」など、境遇はまったく同じだ。

その結果、3人ともアスベスト曝露によって壁側胸膜にできるタコのような「胸膜プラーク」が見つかっている。彼女たちは口をそろえて言う。

「(アスベストが)体に悪いなんて思いもしなかった」(つづく)【井部正之】

<大阪・泉南アスベスト訴訟を振り返る>一覧

※拙稿「最高裁判決で終わりではない 求められる最大限の安全配慮」『日経エコロジー』日経BP社、2015年1月号掲載を一部修正

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