大阪・京橋駅空襲慰霊祭で、慰霊碑に手を合わせる参列者(撮影:矢野宏/新聞うずみ火)

大阪・京橋駅空襲慰霊祭で慰霊碑に手を合わせる参列者(撮影:矢野宏/新聞うずみ火)


◆せめて一日早く戦争が終わっていれば…

終戦前日、米軍による大阪への最後の大空襲で多数の犠牲者を出した「京橋駅空襲」の慰霊祭が8月14日、大阪市城東区のJR京橋駅南口近くの慰霊碑前で営まれた。年々、体験者が少なくなる中、遺族や地域の人ら240人が犠牲者を偲んで手を合わせた。

1945年8月14日午後1時過ぎ、145機のB29爆撃機が大阪に来襲。大阪城内にあった東洋一の軍需工場「大阪陸軍造兵廠」に集中攻撃を加えた。

投下した1トン爆弾のうち4発が京橋駅に落ち、うち1発が城東線(現・JR環状線)のガードを突き抜け、乗客が避難していた片町線ホームを直撃した。名前がわかっているだけでも死者210人、家族全員が亡くなったケースもあり、犠牲者は500人とも600人とも言われている。

東大阪市の吉富玲子さん(84)と今年も再会した。吉富さんは当時13歳。長兄(当時19歳)のもとに「15日に姫路の連隊に入隊せよ」と召集令状が届き、母親と一緒に見送るため、桃谷駅から電車に乗り込んだ。2年前に父と姉を亡くしていた。

空襲警報が鳴り、吉富さんらを乗せた電車は京橋駅で停車。吉富さんは母と一緒に片町線の西側にあった防空壕を目指した。大勢の乗客でごった返す中、突然の爆音とともに駅舎は吹き飛ばされ、吉富さんたちは生き埋めとなっていた。大きな石や柱の下敷きになって身動きできない。隣で「玲子、玲子」と呼ぶ母の声はやがて聞こえなくなった。

その日の夕方に助け出された吉富さんは駅近くの聖賢国民学校(現・聖賢小学校)の講堂に収容された。翌15日敗戦。探しに来てくれた次兄から母と長兄の死を知らされる。

「せめて一日早く戦争が終わっていればと思うと悔しくてね」。
戦災孤児となった吉富さんは「親を亡くした子どもはみじめなものでした。ただただ耐えるだけでした」と語り、手にしたハンカチで目頭を押さえた。

戦後生まれが1 億人を超え、人口の80%を超えた。年々、風化していく空襲体験をどう受け止め、もっと戦争を知らない世代へ語り継ぐのか。時間は限られている。(矢野宏/新聞うずみ火)

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