
金日成の肖像画が掲げられた清津駅。2000年1月撮影キム・ホン(アジアプレス)
◆難民とジャーナリストの共同生活
その後、私は長期の難民取材に備えて、北朝鮮国境から約50キロの延吉市内にアパートを借りることにした。家賃500元(当時約7000円)で、間取りは居間と寝室と台所と手洗い。浴室はない。当時の延吉市では中の上ぐらいで、清潔でまずまず快適だった。
2部屋に台所の間取りは私には広すぎるので、ドンミョンとアン・チョルの2人に部屋を提供することにした。北朝鮮人と寝起きを共にすることでじっくり話も聞けるし、居場所のない彼らに対し、ささやかながら助けになればと思ったからである。
2人の北朝鮮難民は、私が取材で外出している昼間は、私が日本と韓国から持ち込んだ本を読み、晩は一緒に食事を作り、焼酎を1杯やりながら議論を重ねた。私はもっぱら北朝鮮の内情について訊き、北朝鮮人の2人は韓国・日本をはじめとする外部世界のことについて知りたがった。
といっても、堅い議論のときにもっぱら口を開いているのはドンミョンのほうで、アン・チョルは「面倒くせぇ」といった面持ちで、話題が柔らかくなるまでテレビを観ているのが常だった。
朝鮮の習慣にしたがい、年長の私は2人から「ヒョンニム(兄貴)」と呼ばれ、私は彼らをファーストネームの「ドンミョン」「チョル」と呼ぶようになった。チョルについては後に触れるとして、まず、北朝鮮でちょっとしたインテリだったドンミョンのことを記しておこう。