最初の朝中国境取材は31歳だった。1993年7月丹東にて。

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ソウル五輪が開催された1988年、私は韓国語留学のためソウルに出発した。ソウルでの学生生活は2年余りに及んだが、私の韓国留学と前後して、世界地図は大きく塗り替えられ、朝鮮半島を取り巻く状況は激変する。

1988年のソウル五輪には中国、ソ連、東欧諸国が参加。その後ベルリンの壁がなくなり、北朝鮮の友好国ルーマニアのチャウシェスク大統領が処刑された。ソ連・東欧の社会主義政権は韓国と国交を結ぶと、次々と崩壊していった。そして1992年には中国までもが韓国と国交を樹立し、北朝鮮との長年の同盟関係は終止符が打たれた。

このように、東西冷戦構造があれよあれよという間に終焉を迎えていくさまを、私は留学先のソウルで見つめることになった。しかし、冷戦がもっとも激しく現出していた朝鮮半島だけは、南北対立が解消される兆しが見えないままだった。

いずれは北朝鮮が自壊するのでは、という声が急に高まりだした。だが、そのもうひとつの隣国のことを、韓国暮らしを経験しながらも、私はほとんど知らないでいた。反帝反米を掲げ、自主独立を守ろうとする立場は間違っていないし、日本政府が長らくこの国を敵視してきたことを不当だと、漠然と考えていたが、その内実については知ることはほとんどなかった。

だが一方で、北朝鮮は私にとっても極めて不可解な国であった。自らを「地上の楽園」と賞賛し、最高権力の座を統治者が息子に譲ろうとしている国。そしてその地に住む人々の生身の姿・声がまったく伝わってこない国……。

韓国に留学して痛感したのは、自分がいかに韓国のこと、朝鮮半島のことを知らないかということ、そして、韓国、朝鮮半島のことがきちんと日本社会に伝えられていない現実だった。韓国から帰国後、私は、新聞社や放送局の記者ではなく、独立ジャーナリストとして、朝鮮世界の取材をライフワークとしてやっていきたいと考えるようになった。

韓国だけでなく、在日朝鮮人をはじめとする在外コリアン、そしてもちろん朝鮮半島のもうひとつの国家・北朝鮮のことを含めた朝鮮民族の暮らす世界を幅広く見渡したい、そしてそれを人々に伝えたい、という思いからだった。

■北朝鮮取材

韓国の学生運動や在日朝鮮人の教育問題などについてのいくつかのリポートを雑誌やテレビで発表しながら、北朝鮮への取材申請を繰り返した。朝鮮総連の知人は一生懸命手続きに動いてくれたが、平壌からはうんともすんとも返事がない。

いつまで待っても埒があかないので、私は北朝鮮にもっとも近づける場所――朝中国境地帯の取材に赴くことにした。北朝鮮のことも少しは見えてくるだろうし、中国には190万人の中国朝鮮族が住んでいる。中国朝鮮族世界の取材もぜひやってみたいテーマだったので、北朝鮮入国はまたの機会に仕切りなおしと考えて出発した。そして、この第一回目の朝中国境地帯取材で、本書の冒頭で触れたキム・ガンホとのショッキングな出会いがあったのだ。1993年7月のことである。

2カ月間の取材で、この当時の北朝鮮が、すでに飢餓の一歩手前の深刻な食糧難に直面しており、恐怖政治に人々は震えおののいて暮らしていることを知った。帰国後、「北朝鮮が大変なことになっている」ということを知人やメディアの人たちに力説した。が、駆け出しジャーナリストの、たかだか2ヵ月の取材では、大した説得力を持てるわけはなかった。
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