■低空飛行で機銃掃射する米軍機 死者2700人を超す

太平洋戦争末期、大阪への空襲の中で最も凄惨な無差別攻撃の一つと言われる第3次大空襲から73年となる6月7日、大阪市旭区の城北公園の北側にある「千人塚」前で慰霊法要があり、参列した遺族や地元住民ら80人が犠牲者を追悼した。(矢野宏・新聞うずみ火)

あいさつする「千人塚慰霊法要協賛会」東浦会長(大阪市で6月撮影・矢野宏)

大阪は1945年6月に入って1日、7日、15日、26日と、ほぼ1週間ごとに計4回の大空襲に見舞われた。大空襲とは、B29爆撃機が100機以上来襲した空爆のこと。

7日の空襲ではB29が409機を数え、午前11時過ぎから1時間半にわたり、旭区や都島区、淀川区など市の北東部に焼夷弾と爆弾など2594トンを投下した。さらに、当時世界最強の戦闘機と言われたP51ムスタング138機が来襲。城北公園に逃げ込んだ市民らを機銃掃射で狙い撃ちした。死者2759人、重傷者は6682人に上る。犠牲者の中には、徳島県から軍需工場に学徒動員された女学生もいた。

「米軍機は低空飛行で木の下に隠れている人を機銃掃射するので頭を打ち抜かれたり、手足を飛ばされたりした人など、地獄絵図でした」と、主催者「千人塚慰霊法要協賛会」の東浦栄一会長(89)は振り返る。

放置された身元不明の遺体千数百体あまりが淀川堤防に運ばれて荼毘に付された。東浦さんの父が自宅の庭岩に「千人つか」と刻み、敗戦の翌年から慰霊法要を営んできた。父親の死後、遺志を受け継いだ東浦さんが私財を投じて続けている。

「私もいつまで慰霊法要を行えるかわかりませんが、命ある限り大阪で起きた空襲の悲劇を後世に伝えていきます」と話した。

大阪大空襲の犠牲者を追悼する参列者 (大阪市で6月撮影・矢野宏)

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