ミャンマーの首都ネピドーやタイの首都バンコクから見ると、両国を結ぶ簡易の橋の存在は許されないだろう。ミャンマー側に暮らすカレンの人びとは長年、「カレン民族同盟(KNU)」という団体を組織し民族自治を目指してきた。そのカレンの人びとは、自らが「コートレイ(Kawthoolei)」と呼ぶカレンの地に集まっている。この橋の出現はミャンマー政府とKNUの関係、タイ政府とKNUの関係が変わったことを示唆するともいえるだろう。

ミャンマーとタイ国境を隔てるタウンジン川に簡易の橋が架けられていた。それまでは非合法の渡し船でしか行き来できなかったタイ側のカレン人たちが、この橋を渡って革命記念日に参加していた。(2019年1月末カレン州にて撮影・宇田有三)

ちょうどその頃、KNUの総司令部の南には、ミャンマーとタイの両国政府を強く結びつける物流の大動脈「(ミャンマー/タイ)第2友好橋」が開通しようとしていた。ミャンマーとタイとのと経済的な関係も進んでいることを示している。

◆70年を超えるカレン民族同盟(KNU)の武装抵抗

ミャンマー問題といえばこの数年、国際社会では主に「ロヒンギャ問題」が取りあげられてきた。だが同国の最大の懸案事項は、1948年のビルマ(当時)独立前後から続く国軍と少数民族との内戦である。一つの国の中で続いている世界で最も古い内戦は、ミャンマー国内でのカレン民族の武装抵抗であり、現在は一時停戦しているとはいえ、その紛争は70年を超えた。

1962年の軍事クーデター以降のミャンマーでは、国を閉ざした経済政策で半世紀に及ぶ軍政が敷かれ、大多数の国民は圧政に苦しみ、民族の自治を求める少数民族の声は抑え込まれることになった。

しかし1990年代に入ると、経済運営に失敗した軍政は本格的な開放政策をとり始める。その軍政の方針転換の結果、隣国タイとの密貿易から経済的な基盤を持っていた「カレン民族同盟(KNU)」は徐々に弱体化することになった。少数民族との内戦で疲弊した軍政とKNUはそれを契機として、ようやく停戦交渉に入ることになった。

だが、兵力と物量の圧倒的な差から軍政は、KNUの求める自治を容易に認めようとせず、事実上の内戦は続くことになった。この間、タイ側に逃れ出たカレン人の避難民は、非公式で20万人近くにもなった。そのためKNUは、単独での停戦と並行し、これまでつながりのあった他の少数民族と「連合」することによって軍政との交渉を続けることになった。

軍政に対峙するKNU側も一枚岩だったわけではない。長引く内戦でカレンの人びとの生活は疲弊していく。やがて、カレンの人びとの間から、完全な民族自治も大切だが、停戦に向けての条件闘争をしながらでも一刻も早い和平を、という声も上がり始めた。

KNLA(カレン民族解放軍)の兵士。20年前のカレン革命50周年記念式典で(1999年カレン州にて撮影・宇田有三)

しかし、武装闘争を続けて来たKNU指導部は、武力によるその "輝かしい" 抵抗の歴史から簡単に方針転換をすることができず、停戦・和平交渉はなかなか進まなかった。ミャンマーが軍事政権から「民政移管」をしたのは2012年3月末。少数民族と停戦・和平に向けての本格的な協議は、その民政移管した直後のテインセイン大統領政権下で大きく動くことになった。
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