今回撤廃されたインド憲法370条では、ジャンムー・カシミール州は独自の憲法を持つことが許されること、防衛、外交、通信以外の自治権が許されること、インド憲法が州に適用されるには、州政府の同意が必要なこと、憲法370条は憲法制定議会の勧告によってのみ撤廃もしくは修正ができることが、決められていた。
 
また,憲法370条に付随する憲法35条Aでは、州の住民のみが州の不動産の購入、所有が許された。これは旧藩王国時代からあった決まりである。ただ、歴史的背景は異なるが、同じような法律はヒマーチャル州やアンダマン・ニコバル諸島など他の州でも適用されている。

1952年のデリー合意では、他州では州知事が連邦政府から派遣されるのに対し、州では自ら選出することが許され、名称も”Sardar-e-Riyasat(元首)と称され、州主席大臣も総理大臣と名乗ることが許された。インド国旗の他に州旗の使用する事もできた。

インドがジャンムー・カシミール州をこれほど優遇したのは、国連の仲裁下にある国際的な紛争地で、大幅に特権を認めておいて、統合した後に見直せばよいと考えたからである。

だが、このような優遇措置は多民族国家であるインドでは潜在的に反感を持たれていた。特にヒンドゥー至上主義を掲げるインド人民党にとっては、イスラーム教徒が多数派を占めるインドで唯一の州である州の特権的地位を認めた、この憲法370条の撤廃は、前身のジャン・サン党時代からの悲願であった。なので、インド人民党政権が実行に移したのは、決して急な話ではない。
 
州政治は、自治派とインドへの完全統合派に別れ、自治派の政治家は冤罪をでっちあげられ逮捕されるなど、インド政府の意に沿った政治家のみが登用された。 1964年以降は州元首の地位は無くなり、他州同様に州知事は中央から派遣され、総理大臣は州主席大臣に格下げとなるなど、自治は少しづつ後退していった。分離独立派が躍進するかと思われた1987年の州議会選挙は、やはりインド政府の干渉による不正開票が疑われ、その不信が現在までつづく武装闘争の始まりとなった。

それでも、憲法35条Aによりカシミール人のアイデンティティは守られ、憲法370条による自治は認められていたので、インドの議会で可決された法律は適用されなかった。しかし、実際は州議会でも同じ法律を可決するため、憲法370条はカシミール側にとっても、インド側人とっても満足するよう、運用されていた。なので、性急に撤廃する必要は全くなかった。(つづく)

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