涙で描いた祖国 一覧

「やっかい払い」した中国政府
さて、この時から事態は急展開を見せる。まずメディアであるが、26日-27日にかけて主だった外信はほとんどトップ記事扱いでこの事件を報じた。 『ワシントンポスト』は社説でもこの事件を扱った。UNHCRジュネーブ本部は
2010年4月24日 13:25
「アポイントはとってあるのですか?」
もちろん駆け込み・籠城にアポイントなどできるはずがない。が、リーダーの文氏は、 「はい、もちろん。さあ、代表を呼んでもらおうかな」...
2010年4月21日 14:55
駆け込み・籠城の日
決行当日に話を戻そう。 私が同行した班は後門から門衛の前を通り過ぎようとした。すると、やはり門衛に中国語で呼び止められてしまった。NGOのメンバーがパスポートを見せて「ニュージーランド大使館に行く」と英語で言うと、門衛はじろりと...
2010年4月19日 16:28
自決用ネコイラズを携えて 北京入りしてから文氏らNGOのメンバーはあわただしく動き始めた。 まずメディア対策である。同行するジャーナリストは秘密保持のために私一人に限られた。だが、事件をニュース化するためには大手メディア、特に欧米メディアがどれだけ関心を持って、速報してくれるかが鍵だ...
2010年4月12日 12:52
北京へ 6月中旬、大連の隠れ家で、文氏とキルス一家10人に会った。しかしこの時点では、一家の中でも意見は一致していなかった。万一UNHCR突入に失敗すれば、北朝鮮送還は避けられそうにない。だがモンゴルなど第三国に密出国して韓国を目指す方法であれば、途中で逮捕されても隙を見て逃げ出せるかもしれない、そう考えた年長の少年3人は、別動隊としてモンゴル国境を目指して出発することになった...
2010年4月 9日 16:13
「予定通り、お店に突入します... 」 2001年、6月26日中国時間午前10時、北京の外国大使館が集中する朝陽区亮馬河地区のカフェ――。タクシーに分乗して集まった11人――7人の北朝鮮難民一家と3人の支援NGOのメンバー、そしてジャーナリストの私――は、最後の行動確認を行った...
2010年4月 2日 15:41
ぼくは、豆満江近くに住んでいたぼくのおばあさんにこっそり会いに行った。 ぼくはこの間の事情をおばあさんに話した。そして、必ず生きて中国に渡りたいと言った。 結局、おばあさんは、家で飼っていた20キロの豚一頭を、国境警備隊に賄賂として差し出すことにした...
2010年3月 4日 17:05
数時間過ぎた頃、私服を着た人が部屋を訪ねて来た。そして否応なしにぼくは安全部に連れて行かれてしまった。ぼくはこれで終わりだと思った。 伯父さんのことをよく知っているという人物に騙されたのである...
2010年2月25日 08:34
9・27部隊まで連れて行かれたが、すでに賄賂をわたしていたので、ぼくはそこからいち早く抜けることができた。 「今度またつかまえたら将軍様の方針通り、教化所に送るからな」
2010年2月19日 14:10
体中がパンパンにふくれ上がり、血まみれになってぴくぴくと震え出すと、指導員はぼくに、「また逃げ出すのか。もう一度逃げ出したら足一本を折ってやるぞ」といった。 ぼくはとてもやるせなくなり、ぼくを産んだ両親を恨んだ...
2010年2月15日 14:52
ある日の夜ふけ、2時か3時だっただろうか。 ぼくは逃げ出すことを考えていた。以前ここに来た時に逃げ出した経験があったので、そっとドアを開けてみようと考えた。しかしうまくいかなかった...
2010年2月 9日 14:34
そのあと、皆で中に入りご飯を食べた。 ご飯と言っても殻麦・大麦を砕いて、その粉に草を混ぜて作った粉飯であった。 砂がやたらと混ざっていて、飲み込もうとしてものどに引っかかり飲み込めなかった...
2010年2月 2日 18:53
救護所に移されたぼくたちは、まず薪割りをさせられた。懸命に薪を割っていると、経理員のおばさんが、おいでと手招きをした。ぼくをじろりと見つめると「お前、前にもここに送られてきた子だね」と言うのである...
2010年1月25日 18:43
車内は人があまりにも多くて、立っているだけでも辛かった。色とりどりのリュックを背負った人でいっぱいだった。ぼくたちはその人たちの間で何とか立っていた...
2010年1月18日 09:27
北朝鮮の地、そこは一つの巨大な監獄である。人の命をハエの命よりひどく扱う世の中。毎日、そこで何万の人々が死ぬような目にあわされているかわからない。 明け方の3時から、ぼくは安全部の事務所の冷たいコンクリートの床にはいつくばっていた...
2010年1月13日 18:27
いくら殴りつけても、白状させようとしても、同じ答えしか出てこないので、結局彼らは里(町、村)安全部にぼくたちを移動させた。そこでも同じであった。里安全部の安全員はぼくたちを一人ずつ違う部屋に閉じ込め尋問をした...
2010年1月 7日 18:07
安全員はミング兄さんの手錠を解いた。そしてぼくに問いかけた。 「トンム(同務。注・北朝鮮で一般的な呼びかけ。自分より年下か同年の者に向けて使う)、一人は放して、一人は労働鍛錬所(注・居住地を離れて流浪したり、社会規律違反した者を再教育する短期強制労働キャンプ)に行って3ヶ月、働かせないとダメだな」...
2010年1月 3日 14:59
ぼくはすぐに答えることができず、言葉に詰まってしまった。しかしなぜなのか、彼らはぼくたち二人を釈放してくれた。 ぼくたちは助かったと思い、駅の方に行った。ところが、駅前にいた軍人が近寄ってきた。 「こいつらを道安全局巡察隊に引き渡せ」 彼は横にいた兵士に命じた。
2010年1月 1日 11:11
「なぜ、そんなに服がぬれているんだ?」 「魚をとろうと遊んでいてこうなってしまいました」 その時だった。指導員の拳骨がいきなり飛んできた。ぼくたちが嘘をつくからだと言った...
2009年12月28日 06:02
北朝鮮側の川辺に着いてすぐ、ぼくはびしょぬれになった服をしぼり、急いで身につけた。それから知りあいの家に向かって歩き出した。目ざしていた家にほとんど着いた時であった。道の向こうから来た普段着を着た二人の若者がぼくたちを呼びつけ、来いと言った...
2009年12月23日 00:29
チャン・キルス、中国越境当時15歳。咸鏡北道花台郡生まれ。高等中学学校在学中に、父と、軍隊に行っている上の兄を残したまま、99年1月母と下の兄と共に北朝鮮脱出。その後2度にわたり、家族を助けるために再び豆満江を渡った。
2009年12月18日 12:36
生きのびる方法は北朝鮮脱出のみだ。北朝鮮脱出! それだけが、私と私の子どもたち、そして家庭を守る唯一の道だと信じたのである。
2009年12月17日 19:31
貧しい暮らしをしながらも、子どもたちは、父である私のことをとても心配してくれた。 「うちではお父さんが一番苦労しています。でもお父さんが一番体が弱いので心配です」 そう言って、私の健康を気づかってくれるのであった...
2009年12月14日 01:17
私たちが暮らしていた村から遠くない所に、「端川亜鉛製錬所」があった。その企業所には、外貨を稼ぐことのできる有色金属や、その他の副産物があった。 しかし、いつの頃からか、その企業所は「貧しい人」には「生活手段」に、裕福な人には富を蓄える手段になり始めた...
2009年12月10日 10:28
私の子どもたちは野草を摘んでくるだけでなく、季節によっては果物、野菜、穀物粒など、とにかく目についたものは何でも拾ってきた。またはじめのうちは落穂拾いだけだったが、拾うものがなくなったのか、農場で管理する農作物を盗んできたりもした...
2009年12月 6日 20:53
私と家族全員が、三年間大切に抱いてきた、労務輸出で稼ぐというささやかな夢は、粉々になってしまった。夢が破れてしまった私は、罪責感でしばらくの間、虚脱状態から抜け出せなかった...
2009年12月 3日 02:32
1年が過ぎた98年の初め、また労務輸出ブームの風が吹き始めた。 企業所の数多くの従業員の中から、候補が数人しか選ばれないのだが、私が再び選抜された。「成分(身分)の良い人」だけが厳選されるのだが、何が原因で自分が選ばれたのかわからなかった...
2009年11月30日 13:06
脱出の何日か前のことであった。私が通っていた企業所職場に所属する副業船(漁船)に乗った同僚と話をする機会があった。 私が彼に、「サケの時期はサケで、イカの時期はイカでもうかるんだろう?」と言うと、彼はこんなことを言った...
2009年11月27日 14:40

私たちが盗んだ「ドロス」を家に持ち帰ると、父さんと母さんは、それをうすに入れて砕く。するとその粉が飛び散り、つんとひどい臭いが充満した。 臭いだけではなく、のどが痛くなりほこりも被った。 まっ青になるまで細かく砕かなければならないのだが...
2009年11月24日 03:58

わが家から40分ほど歩いた所に、とても大きな亜鉛製錬工場があった。この工場は私にとって格標的であった。私は初めてここで盗みを覚えたのだ...
2009年11月20日 12:31
メディアとジャーナリズム
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