リムジンガンのご案内

ico_new.gif06年ミサイル発射と核実験 その時北朝鮮国内は リムジンガン
認めてほしくて撃った「特殊な核」
核実験が報道がされた翌月の一一月、記者シン・ドソク(申導石)は、韓国のKBSラジオ放送を密かによく聞いているという、三〇代半ばの金物商人の友人に会い…

ico_new.gif北朝鮮―「私は政治犯収容所に10年いた」 リムジンガン
北倉(プクチャン)18号管理所出所者の証言 6
「18号管理所」での生活(承前)
●封建的な住民行政制度
「管理所」の中では、結婚も自由にできない。 「解除民」の私には、愛する女性がいた。彼女は「移住民」であった。 私たちの結婚には、制度的障害が立ちふさがっていた…

ico_new.gif北朝鮮―またも始まった市場の「抑制」 解説2 リムジンガン
07年「市場抑制」はいったい何を意味するのか 2
二〇〇七年一〇月労働党中央委員会指示文の抜粋・・・

ico_new.gif<緊急報告> 下がり始めた食糧価格 北朝鮮食糧危機の実態を探る (5)
食糧価格が下落しつつあるようである。相変わらず地域差が見られるものの、白米もトウモロコシも各地で下がっている。 米国からの50万トンの支援食料はまだ届いていないし、外国からの大量輸入があったという話も聞かない・・・

ico_new.gif北朝鮮―燃えてしまった首領様の油絵 [事件・事故]リムジンガン
記者シム・ウィチョンが二〇〇六年九月南新義州(シニジュ)に住む五〇代後半の女性に取材した事件の話である…

ico_new.gif北朝鮮―07 年盧武鉉大統領の訪北を私はこう思った 4 リムジンガン
咸鏡道「将軍様はすごく年をとった……」1 咸鏡道「将軍様はすごく年をとった……」1 取材 リ・ジュン  2007年11月、記者リ・ジュン(李準)は、咸鏡道の住民たちと首脳会談関連の取材を行った。 取材に応じたチンさんは三〇代労働者の男性、パクさんは五〇代医師の男性、リさんは三〇代の農民の女性だ…

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第一回 棄民の里の皇軍兵士-3  (柳本通彦)

番刀1本の兵隊

台湾・川中島に旧日本軍の志願兵を訪ねる。老兵の語る戦争の記憶。

生前のワリスピホ(米川)と孫。自宅前で。
●川中島の「ヤマトダマシイ」  台湾のへそと呼ばれる埔里の町から田舎のバスに揺られること40分で、川中島の入り口に着く。オビン・タダオら霧社事件の生き残りの人たちも、埔里を経由してここへ連れてこられた。  わたしが、川中島を訪ねた90年代半ば、前回ご紹介した「ワリス・ピホ」(日本名・米川)のほかに、元日本兵という方がまだ2名生きておられた。 米川によると、約70戸の川中島から終戦までに20数名の若者が志願し、生きて帰ったのは10名に満たないという。そのうちの3名に会うことができたわけである。

 一人は、米川の家のすぐ近くに暮らす前田則夫である。民族名パワンナウイ。68歳。身体の状態がよくなく、静養中とのことで、自宅にいた。取材の意志を伝えると彼も白い軍帽を被って現れた。
 第6回義勇隊に志願し、フィリピン、ラバウル、ソロモンと転戦。川中島から同行したのは4人で、3人が生還した。しかし、うち2人は帰国後まもなく病死している。あれは戦死と同じだと前田は言う。

「どうして志願したんですか」
「ヤマトダマシイが欲しいからですよ。学校で習った。肉弾三勇士。あんな写真が欲しかった」
「結局義勇隊に?」
「軍属ですよ。階級もない。靴もない。番刀1本だけ」
「どうして靴がないんです」
「特別切り込み隊だから。音がするでしょ。訓練のときも、船に乗るときも裸足」
「ジャングルでも?」
「もちろん。マニラに着いたとき、向こうの兵隊がびっくりして集まってきました。お前らどこからきたんかって」
「みんな裸足だから?」
「そうよ。それから、ソロモン行って戦争した。最後はタマもなくなって、銃も捨てた。番刀1本で突撃するんです」

 「番刀」というのは、山の男たちが一定の年齢に達すると必ず携帯していた短刀である。通常は1尺、戦争用は1尺半、約50センチもある。これ1本で、敵の首も狩り、猟にも使い、木や枝もはらう。幅が10センチほどもあって分厚い。短刀というより、鉈に近い。

川中島で挙行された出征兵士の壮行会(昭和17)。

●ある志願兵の終戦
「終戦は?」
「ニューギニアで。部隊長ははっきり言わないが、アメリカの軍艦が日本の歌を流して、出てきなさい、日本へ帰ろうって言ってる。わたしらは、勝つまで戦うつもりだった。さもなくば、死のうって。でも、部隊長が止めた。生きて帰れって」
「それで、収容所に入った?」
「恩賜のタバコを1本もらった。それで、おしまい。なにもない。ポケットに少しカネがあったけど、1回も使わなかった」
「それで、台湾に帰ってきた?」
「昭和22年の4月。ラバウルからアメリカの船に乗って。基隆港。夜ついたから、ひと晩船で寝て、明くる朝上陸する。もう日本人いない。シナ人の兵隊ばかり。やせ細って、ボロボロになって帰ってきたのに警官が偉そうに言うから、岸壁からそいつを投げてやった」
「家族に会ったときは?」
「なにも言えないよ。2年ぐらい寝たままで動けなかった。カネも全然なくて情けなかった。月給は、150円という話だった。100円は実家に送る、30円はラバウルの郵便局に、20円は自分でもらう。戻ってみれば、結局1銭もない」
 前田は、最後に番刀とアルバムを持ってきた。番刀はもちろん当時のものではない。戦後、作らせたものであろう。
「これで、アメリカの首は狩ったんですか」
「いや、まだ」
 まだ、という意味は、チャンスがあれば、まだ出征する気だろうか。馬鹿げた空想だが、もし天皇陛下が彼らに頭を下げて「頼む」と言ったら、たとえ一瞬でも彼らは「行こうか」という気になると思う。

 昭和天皇は、彼らに対する責任を果たすことなく昇天した。あの世で多くの老兵に囲まれて、ああでもないこうでもない、と言われて困っておられるのでないか。
 アルバムの中には、わたしの期待するような戦争に関係があるような写真は全くなかった。それは、平地でも同じである。戦後、国民党による反日政策のもとで、彼らの多くは日本軍に関係するものをごっそりと焼いている。

 靴も、階級も、そして結局は給料さえも手にすることなく、番刀1つでジャングルを駈けた高砂勇士は、果たして目的の「ヤマトダマシイ」を手に入れることができたのであろうか。(続く)


yoshida_side.gif yoshida_side.gif yanagimoto_APN__banner005.gif ogura_side.gif ooba_APN_banner004.gif sakamoto_side.jpg tamamoto_side.gif sakamoto_side.jpg 戦争の現場から リムジンガン

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