
「右」の人たちとの討論やら靖国神社への考察などを書き記してみました。
【「ニイタカヤマ ノボルナ」の記者会見】
さて、今回の番組もやはり「愛国」が議論のポイントになった。塩見さんの口からも「愛国(くに、クニ)心」「愛民族」という言葉がぽんぽん飛び出してくる。自分の生まれた場所、自分の家族、自分を育んだ共同体などへの「愛」を指しているのだろう。そのような自然な心情を否定する者は誰もいない。「右」も「左」も同じである。問題は「愛」ではなく、「国」なのである。「人」や「自然」を愛するのではなく、「国を愛すべし」というのが曲者なのだ。
ぼくは「国家」というものに対しては、決定的な不信感を抱いている。この世でもっとも信用のならないものである。すべての戦争は「国家」の名のもとに戦われ、兵士と人びとは「国家」のために命を落とすのである。
前回、この連載ではイラク戦争を仕掛けた「米国の正義」について書いた。ブッシュ大統領は「これは善と悪の戦いである」と言い、ぼくがイラクで会った若い米兵たちも「われわれはイラクの人たちを解放するためにやって来た」と信じていた。いま米国の世論はブッシュ大統領の数々のウソに気づき、イラクでは「無駄な死」の再生産が行われているのではないか、と思い始めた。米兵の死者が2千人を超えてくると、この戦争の大義を疑うのは当然である。それでも、いったん「国家」が始めた戦争をやめさせることはむずかしい。なぜなら、国家は「愛国心こそもっとも尊い価値である」と教えてきたからであり、「愛国心」を持たぬ輩を「国家」に有害な人物とみなして、排除、弾圧の対象としてきたからである。
「国家」をもっとも上位の概念に置くという「愛国心」は、畢竟「国のために命を捧げる」ことを厭わない国民を育てあげ、戦争へ人びとを駆り立てるものとして使われる。「国家」にとってこれほど便利で使い出のあるものはない。「愛国心」とは「国家」への忠誠を条件として成立する概念だからである。
チャンネル桜の議論でも、「愛国心というものは議論の対象とするものではない。絶対的な価値なのだ」と言う論客がいた。彼にとって「愛国心」とは身も心もすべてを委ね、命を捧げるのに値するものとして認識されているようである。たとえ「国」が誤った戦争を起こしたとしても、たとえ負け戦とわかっていようとも、「国」と運命を共にしようという態度である。それがぼくにはわからない。
また「愛国心」の具体的な中身もよくわからない。家族や故郷を愛しいと想う気持ちはよくわかっても、それがそのまま「国家への愛」に回収されてしまうことへの疑問はないのだろうか。
何時間かけても、「右」と「左」の「愛国心」をめぐる議論は延々とグルグル、グルグルとカラ回りするだけで、一向にかみ合いそうもなかった。燃焼されない、精神の疲労感だけが残った。
チャンネル桜の収録が終わった後、ぼくは靖国神社へ出かけた。今年になって何回目かな。五、六回は来ているはずである。参拝するためではない。いわば下見である。対米戦争の開戦記念日にあたる十二月八日、ぼくたちは靖国をからませた形で「主権在民!共同アピールの会」という会の立ち上げを計画しており、靖国の様子をちょっと見に来たのである。

【写真: 靖国神社の前で「主権在民!共同アピールの会」の代表たち】
(月刊「望星」06年2月掲載分---その2) 次回に続く



