
「右」の人たちとの討論やら靖国神社への考察などを書き記してみました。
【「靖国への手紙」を読む野中章弘】
この会はもともと憲法改正国民投票法案や改憲への動きに異議を唱えよう、という仲間たちで作ったものである。呼びかけ人は吉田司、吉岡忍、元木昌彦、森達也などの面々である。靖国では「ニイタカヤマノボルナ!靖国に<死者>の声を聞きにゆく」という企画を考えていた。靖国の「英霊」へ手紙を書き、彼らの声に耳を傾けようという試みである。「国」に命を捧げた戦死者たちはいったいどのような日本になることを望んでいたのか。そのことを「手紙」というスタイルで問いかけ、それを靖国に届けようというものである。
手紙の相手としては、それぞれ東条英機、松井石根などの戦争指導者をはじめ、「特攻の父」と呼ばれる大西瀧治郎、硫黄島で戦死した金メダリスト西竹一などの名前が挙がっていた。
ぼく自身は日中戦争後、従軍記者として初めて靖国に合祀された東京朝日新聞の岡部孫四郎を選んだ。同じジャーリストとして、聞いてみたいことがたくさんあったからである。以下、ぼくの手紙である。
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東京朝日新聞特派員 岡部孫四郎様
あなたが従軍取材中、頭部に銃弾を受けて亡くなられたのは、一九三七年(昭和十二年)七月二八日のことですね。東京朝日新聞の特派員として、北京郊外南苑の激戦を取材していたときの出来事でした。朝日新聞社史によれば、あなたは「日中戦争初の従軍記者の犠牲者であるばかりでなく、朝日新聞創刊以来はじめて銃弾で倒れた「ペンの戦士」で、二九歳であった」と記されています。
京城(ソウル)支局員のあなたは、盧溝橋事件が勃発したため、急遽、北京へ派遣されたのでした。当初、「北支事変」と呼ばれた日本軍と中国軍の衝突は、やがて中国全土を戦場とする日中全面戦争へと拡大することになります。
当時、朝日新聞に掲載されたあなたの記事を読めば、あなたが血気盛んな若い記者であり、日本が行った戦争の大義を純粋に信じていたことがよくわかります。
あなたは従軍記者としていつも戦闘の最前線に出ていたのでしょうね。亡くなる2日前に打電された「頭上で爆弾炸裂!我勇士鮮血淋漓」という記事では、中国軍の機関銃の猛射を受け、「耳が聞えなくなった、目も真暗だ、ヒヤリと顔に水がかかつたと直感した 「やられたか!なあに支那兵にやられて堪るか」と思わず腰の拳銃に手が触れた 顔をなでて見た・・・手を見るとベットリと血糊がついている」とすぐそばで撃たれた兵士の鮮血を浴びた様子を描いています。
また同じ記事の後段には、「「大川、米谷確かりしろ傷は浅いぞ」抱きあげた戦友の手が震えている・・・至高至尊人間感激の一瞬時だった「しっかりせよと抱き起こし・・・」と軍歌にある今その言葉を記者は聞いたのだ・・・記者は流れ出る涙を拳で拭つて黙祷を捧げた」と激情のこもった筆致で戦場の死を書いています。
絶筆となったのは死の直前にしたためられた戦記です。「彼我の砲声は殷々として「けふは事変始つて以来の大激戦になるぞ」と胸がわくわくする・・・尚我軍の死傷者はその数を増しつつあり、ああ尊き名誉の戦死者既に四十名に達している」という激戦の最中、あなたは若い命を散らしたのです。
日中戦争からアジア太平洋戦争突入までの戦没記者は、朝日新聞だけでも十六名に及んでいます。あなたはその名簿のいちばん最初に名前を刻まれたのですね。
あなたが亡くなってから一年余りたったころ、「故岡部氏も合祀」という見出しの記事が出ました。靖国神社臨時大祭に合祀される旨、官報で発表されたというのです。
あなたが勤めていた新聞社は、「通信職務遂行のため戦死した新聞記者が同神社に合祀されることは全く今回が始めてで遺族並に本社の光栄はこの上もない次第である」(一九三八年十月七日付け東京朝日新聞)と書いています。
この知らせをあなたのご家族も「光栄」なものとして思われたのでしょうか。
このころ、日本は破滅的な結末を迎える戦争へひたひたと走っており、この日の紙面も政治から生活面まで戦時色一色となっていました。満州事変後は朝日新聞だけでなく、すべての新聞が大政翼賛的な報道へと舵を切っていったのです。ごく少数の者たちを除き、ほとんどの記者たちは「皇軍の大義」を疑うことはなかったようです。
中国の戦場であなたが見たものは、お国のために勇敢に戦い、命を捧げる日本兵の姿であり、日本軍に刃向かう中国軍民はすべて「敵」だったのですね。日本軍の侵略によって苦しむ中国の人びとの姿はあなたの目には映っていなかったのでしょうか。
いま私が「あの戦争は侵略戦争だった」と言えば、あなたはどう思われますか。「大東亜の解放を信じて散華した日本の将兵を愚弄するな!」と憤激されるかもしれませんね。
私は戦後三十年ほどたってから、日本軍が住民虐殺を行った平頂山(中国東北部)事件の現場を訪ね、生存者の聞き取り調査をしたことがあります。約三千人の住民が皆殺しにされたということです。いまでも犠牲者の骨が散らばる現場は保存されています。赤ん坊や子どもの骨もあり、無残な光景として私の目に焼きついています。
この平頂山事件が起きたのは、一九三二年の夏のことです。あなたはこのような事件を知っておられたのでしょうか。あなたはもう記者として活躍されていたはずですから、そのような情報を耳にしていた可能性もあると思われます。
また私は幾度か南京を訪れ、一九三七年十二月に起きた南京大虐殺の証言を記録したこともあります。犠牲者の数は確定できませんけれども、ここで多くの住民が虐殺されたことはまぎれもない事実です。この事件はあなたの亡くなられた後のことですが、中国の人びとにとって日本軍は侵略者以外の何者でもなかったことを示しています。
戦後、朝日新聞の社長となった美土路昌一氏は、「この非常の時に、全新聞記者が平時に於て大声叱呼自由の烽火を、最も大切な時に自ら放棄して恥じず、益々彼等を誤らしめたその無気力、生きんが為めの売節の罪を見逃してはならぬ」と述べ、「今徒らに軍の横暴のみを責めている自分に対し、深く反省し自責の念に堪えないのである。言論死して国遂に亡ぶ、死を賭しても堅持すべきは言論の自由である」と語っています。
あなたはいまこの言葉をどのようにお聞きになりますでしょうか。
先ごろ、私は三年前に他界した母の墓に参るため、帰郷しました。母の墓石の隣には日中戦争に参加した祖父・野中昂(たかし)が眠っております。昂は盧溝橋事件の前後、中国で兵士として戦い、最後は陸軍病院で戦病死しました。河北省の戦闘で負傷したと墓碑の裏に記されていました。
病院に祖父を見舞った伯父の話によれば、祖父はぼろぼろの格好でベッドに横たわっており、「ほんまにえらい目におうたんやぁ」とだけ言い残して死んだそうです。無念の死です。享年二五歳。彼は靖国神社に祀られていますが、他にもやはり中国などで戦死した父方の二人の伯父が合祀されています。
私はいまあなたと同じような職業についています。事実を記録し、それを伝えるという仕事です。残念ながら、過去の戦争報道を振り返れば、多くの記者たちは戦争の実相に目をつぶり、人びとを侵略戦争へ駆り立てるような記事を書いてきたのです。その責任は容易に免罪されるものではないでしょう。
その反省のうえに立ち、私たちは戦争へ傾斜するすべての動きに反対しなければならないと思っています。岡部さん、私たちがふたたび過ちを繰り返すことのないよう、見守ってください。そのことを願いながら、筆を擱かせていただきます。
二〇〇五年十二月八日 野中章弘
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この「靖国に祀られているあなたへの手紙」という企画には、発起人たちのほかにも、ノンフィクション作家の江川紹子、日名子暁、評論家の佐藤文明、井家上隆幸、大学教員の
金子勝、池田清彦、漫画家の石坂啓、映画監督のジャン・ユンカーマン、それに沖縄からは作家の目取真俊も原稿を寄せてくれた。
八日のお昼ごろ、靖国神社のお茶屋さんに二十人の関係者が集まり、それぞれのやり方で「死者(英霊)」と対話を行った後、衆議院会館へ移動して会の発足記者会見を開いた。
記者たちへ配った声明文の中で、「靖国に<死者>の声を聞きにゆく」という企画の趣旨をぼくたちは次のように説明した。
「・・・私たちは、この国の運命が生者の声、いま生きてある者たちの選択にのみ委ねられているとは思わない。死を忘れるな。死者たちの意思をこそ畏れよ。この国の戦後六十年間の平和と繁栄の礎となった死者たちの呻きと叫び、アジア・太平洋のさまざまな地と海の底から響き渡ってくるその何倍もの死者たちの声をこそ私たちは聞き、ともに交感し、思索し合い、生者と死者の言葉を重ね合わせたいと思う。
二〇〇五年十二月八日、私たちは靖國に〈開かれた庭〉に行こう。小泉旋風と、反日の強風が吹き荒れ、改憲の風雲が急を告げる庭に赴くだろう。
そこで、私たちは木霊するあなたたちの言葉に耳を傾けよう。戦争の歴史と、その慚愧と反省から生まれた日本国憲法の、とりわけ前文と第九条が謳う不戦主義の重要性をともに考え、この国が今後、近隣アジア諸国と国際社会においてどう生きていくべきかをめぐって静かに対話したいと思うからである。
死霊よ、語れ。慟哭し、呻き、叫べ。
私たちも、語ろう」(起草は吉岡忍、吉田司など)
「死者への手紙」は靖国に凝縮され、複雑にからみあった思想の糸を、丹念に解きほぐしていく作業のひとつとして始めたものである。これから、より多くの人びとの参加を呼びかけていきたいと思う。
(月刊「望星」06年2月掲載分---その3) 次回に続く



