![]() 【かつては売ることさえできなかったクルド関連の書籍。いま、PKK系や独立系などいくつもの出版社が発行する(イスタンブールのクルド書籍店で)】 |
イスタンブールに小さなクルド語出版社がある。タクシム広場ちかくの雑居ビルの小さなオフィス。壁一面にクルド語書籍が並ぶ。編集者のメティン(仮名)は、これまで多くの出版物を手がけてきた。
「PKKは、同じクルドの兄弟だ。これからは、兄弟どうしでいがみあうべき時代じゃない」
彼とのつきあいからは、クルド語や歴史といった学術的部分よりも、トルコのクルド運動の直面する問題や、運動内部の力のバランスを学んだ。メティンは、これまで強硬な反PKK主義者だった。
トルコにあるクルド系メディアの多くがPKK系かまたはその支持者である。それはトルコでの「PKK支持率」を反映したものである。だが、実際には、そう単純ではない。
70年代、地下で活動を続けていたクルド出版社はいくつもあった。80年軍事クーデターで風前の灯火となったクルドの言論運動は、PKKの登場で状況は一変する。過激な武装闘争は政府の徹底的な弾圧を招いたが、同時に、クルド人の支持をえて、運動は勢いづいた。
PKKは、トルコのクルド運動の主要勢力となる過程で、ほかの組織や団体を威嚇した。それはときに暴力を伴った。彼らが運動の覇権を握ってきたのはこうしたことも背景にある。独立系のメティンの出版社も、PKKに合流するか、出版活動をやめるか、何度も迫られたという。
「PKKがクルドの運動をめちゃくちゃにした」と、彼はいつもこぼしていた。
90年代、トルコ軍はPKK掃討を理由に、3000をこえるクルドの村々を焼き払うなどして破壊した。彼は、この責任はPKKの武装闘争戦術にもある、と考えていた。そして、他の運動を暴力的に排除しようとする姿勢に怒りさえ感じていた。
トルコ政府、メディアは一般にPKKやをビョリュジュ(分離主義者)とよぶ。PKKの武力闘争はすべて「分離主義者テロ」(Bölücü Terör)と表現される。だが、ビョリュジュという言葉は、クルド運動全体に対しても使われた。自分はクルド人、と言っただけでビョリュジュとされ、国家反逆罪の対象とされた者も少なくない。
アブドラ・オジャランの逮捕後、PKKは、平和アプローチ路線(ペバジョヤ・アシティ "pêvajoya aştî " )を打ち出し、トルコ国民としてクルド問題の解決を求める戦略に転換した。その後も、武装闘争は続いてきたので、この「平和アプローチ」は現実とは矛盾するものの、PKKは、トルコからの分離独立路線は捨て、トルコ国内での自治権獲得運動へと政治目標を変えた。
イラク戦争後、クルドに新たな変化がおきている。宗派抗争や爆弾事件があいつぐバグダッドをよそ目に、クルド自治区は独立クルド国家が出来上がったかのような様相を呈しはじめている。PDK(クルディスタン民主党)、PUK(クルディスタン愛国同盟)は歩み寄り、自治区政府の影響は、シリア、イランのクルド民族運動にも影響を与えはじめている。
クルド内での覇権争いの時代から、広範な民族運動の創出に視野がうつってきているのだ。物理的な障害はまだいくつもあるものの、PKKを敵視するのではなく、クルド運動の仲間として考えよう、とする意識が、クルド運動家や知識人のあいだでしだいに広がっている。
メティンは、PKKの政治的変節を批判し、いまもクルド国家独立の夢を捨てていない。だが、これまで、会うことすらなかったPKK支持者らと、語りあうようになったともいう。
「いま、独立を主張する僕らが、PKKの友人から冗談交じりにビョリュジュと揶揄されるようになったよ」と、メティンは笑いながら言った。
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イラク・トルコ・イラン・シリアにまたがるクルディスタン。分断民族クルド人とは。クルド問題とその他の地域も取材中(坂本卓/アジアプレス)





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