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季刊誌 北朝鮮内部からの通信〜リムジンガン 第2号・夏号
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ico_new.gif北朝鮮―映像取材ルポ 平安北道朔州(サクジュ)郡を行く 2 リムジンガン
[解説]辺境の軍需産業都市は寂獏としていた(承前)
実際に訪れて見てみると、金正日の論文で強調されていた、こぢんまりして上品な地方産業は影が薄く第二経済委員会傘下にあり、大口径の曲射砲を生産する…

ico_new.gif偽ドル[北朝鮮のことば] リムジンガン
平壌市の黄金原(ファングムボル)駅とキョンフン通り周辺の外貨商店(外貨でのみ販売する店)も、すっかり夜の闇に包まれた。いつしか人影も途絶え、もう両替をしに来る客もいそうにない…

ico_new.gif北朝鮮―「私は政治犯収容所に10年いた」 リムジンガン
北倉(プクチャン)18号管理所出所者の証言 12
「第18号管理所」事件
 ●事件の発端「申訴事件」(承前)
申訴者を放っておいたら自分たちが危ないということをよく知っているXの一派は、検閲員がテープを手に入れて平壌へと戻るやいなや…

ico_new.gif北朝鮮―「表現の自由、言論の解放が必要です」[若者の声] リムジンガン
23歳青年が考える祖国の発展の条件 1
朝鮮北部で暮らすキム・ギファン(仮名、二〇〇八年七月現在二三歳)は、中学生だった一八歳の時に金属の売買をしていたが、これが違法行為として保安署に逮捕され…

ico_new.gif北朝鮮経済官僚極秘インタビュー リムジンガン
我が国の経済動向 12
外の世界の知識や情報の欠如
今日の経済的な問題点は、言論や学問の自由がないことに帰結するのだろうか?
ケ・ミョンビン:現在明らかなことは、国内経済難の打開も改革も…

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日本初!脱北者ブログ ぱく・よんの<北朝鮮とニッポンと>15

改題 ゛苦難の行軍とは何だったのか゛14

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清津駅前にたむろするコチェビたち 05年4月 李ジュン撮影


 例えば、鉄道の“平壌-羅津線”鉄道の場合。
国民たちから平壌市を<守る>ために、平壌の手前100キロメートルの新成川(シンソンチョン.中部朝鮮の駅名)で検閲があり、第1次としてまず連行下車される。
次の順川(スンチョン,西部朝鮮,平壌70キロ手前)で、第2次の連行下車があり、別の独立的な増強取り締まり班が乗車する。
最後に間里(カンリ,平壌郊外,15キロ手前)で行われる第3次取り締まりをパスするか潜り抜けた者だけが平壌に上京できるわけだ。


身震いするほど厳しいこの取り締まり戦闘が終わると、混雑していた列車の定員82人用1車両は、せいぜい10人足らずの平壌通行証所持者だけでガランとして平壌市内の駅に着くのだ。


さらにである。改札口を出ようとすると、また別の通行証確認が息苦しく待っている。
改札では、平壌市民でない“地方人”は恥ずかしくも通行証を改札口の警察に直ちに回収され、暗い駅の地下にある、椅子もない確認口の前に罪人のように追い立てられ、列にならばなくてはならないのだ。


そこには各方面からの列車で到着した地方の人々が数百名が群れ集まり、確認された自分の通行証が返されるのを30分以上待たなければならないのだ。
もちろん幹部や外国人には改札口も確認口も、階級社会らしく特殊に設けられて、専用待合室は結構立派である。


この1995年当時、工場や企業はほとんど閉鎖されていたし、また、出張旅費や食糧券の支給も消滅していて、出張の項目自体が消えていた。
しかし、商売や私生活的な目的で、全国消費の50%以上と、人口の1割が集中している平壌市への出入は相変わらず活発だった。


換言すれば、この平壌旅行者の全員が持っている通行証を発給することが、既得権益層の主要な収入源になっていたのだ。
つまり、`証明書の闇市場゛が登場していたのである。
平壌と国境地域への通行証は1枚当1,000ウォンもした。
ちなみに、当時名目上の公務員平均月給は100ウォン,また一般地方への通行証1枚は50ウォンであった。
平壌は、すでに金のない忠誠分子や貧乏人には閉鎖されていたようなものだった。


さて、このように厳重な平壌市出入の警戒網によって“バルチザン”的行動で将軍様に悲惨な現状を報告に行こうとした忠実な少年団員の99.9%が、間里までの3段階の検閲ですべて引きずり下ろされた。
子供たちの取り締まりに動員される少なくない警察官たちも悲痛な心情を隠せなかった。
平壌に到着した車両から“パルチザン”の潜入が発見された場合、その担当警察官は降車処罰、警察の副業地である農作業組に革命化として回されてしまうのだ。


この時期はというと、護衛局(最高幹部の警護担当局)のような最高の権力機関であっても、勤務する本人分の食糧以外の一切の配給がすべてストップしてしまっていたので、処罰を受けた列車警察官は乗客からの収賄のひもが断絶されてしまうと、扶養する家族を絶望状態に落としてしまうのだ。


その一方で、車両の椅子の下や屋根、連結部、ボイラー、小モノいれ、床下の構造物に隠れている幼い少年少女らを探し出し、列車から叩き出す取り締まりは、人間として,しかも潔白な児童にその様に行動するよう忠誠心を助長鼓舞してきた国家の警察官として、心に深いトラウマを彫み込むことになった。


拘束された児童はあまりに幼く、強制労働をさせることもできず、また食糧を調達する方法もないので、集結所送りの対象にもできず、何の連絡も対策もないまま、その駅舎から外に追い払われた。一文もない少年少女らは、怨恨を抱いたまま餓えて、道端にばだはたと倒れていった。


消えていく最後の息吹をやっと保ちながら、忠誠に燃えた少年団員たちは何を考えただろう。
亡国の“抗日児童団”を考えただろうか。
でなければ、戦時後退期の“少年パルチザン”を思い描いただろうか。
それとも母に甘えた日々を思い出しながらその短い人生を終えただろうか。
今もあの少年団たちの倒れた光景を思い出すと、私も胸が痛んでいたたまれなくなる。


こうして、最も核心的な共和国の未来である子供たちは、自分の国の青空の下で、パニックで右往左往する人々の溢れる道端に捨てられたまま、無惨にも、無惨にも死んでいったのであった。

この1995年、このようにして共和国のコッチェビ第1号が生み出されたのである。

続く