苦難の行軍とは何だったのか15

駅前の露天食堂で飯をかきこむ 05年4月 李ジュン撮影
愛国心と忠誠心に燃える純粋な10代の少年少女が、無慈悲にも混乱の中でコチェビとして散っていった時、一方で、自らの血と汗でこの国と制度を打ち建てた高齢の退職者たちが立ち上がった。
朝鮮労働党の“10大原則”を唱えて危機の打開のために行動を始めたのだった。
険悪な社会の現実を直接目撃したその老人たちは、職場や住民単位別に組織されている党の基本組織の有名無実化と、地方の行政および権力機関の機能停止によって、急速に社会が無秩序になり、略奪と暴力が発生するまでになっているのを食い止めようと試みたのである。
個別的党員の名義で中央に申訴の書簡を発送したり、居住する市、郡にある党および行政機関を訪ねて行って陳情を始めたのである。
老人世帯であり、革命の功労者である彼ら忠誠心の厚い老労党員たちは、食糧と給料が1年近くも完全未払いのままであり、工場の稼動が全般的に中断しているのに、何の対策もないことを人民政府に躊躇なしに抗議した。
国営住宅に住んでいる住民たちが違法なやり方で家を失ったり、追い出されてたりして共和国の歴史上初のホームレス家族が大量に出現しているのに、あろうことか該当機関が賄賂を受け取って強奪者側を黙認しているのは危険な反国家的行為だ、と暴露した。
小学校,中学校の生徒と先生が食べることができなくて、校庭や教室ががらんと空いている、などということは朝鮮戦争時にもなかったと告発した。
人民軍の兵士たちの中には、飢饉の中で栄養失調にかかって廃人のようになっている者が出る一方で、軍の補給物資を横領したり、各地で住民家屋と農場の倉庫、一般人を襲って略奪したりする現象が起こっていた。
また安全員(警察)が、豆腐やタバコを売ってやっと食いつないでいる年寄りや主婦の商いまでもを、違法だとして品物を強制没収し、そのようにして掠めた金を貯めて日本製の中古自転車を購入したり高級タバコを吸ったりするなどの公務員の腐敗もひどかった。
これらが拡がることを止めようとしない幹部ら権力者の責任追及にも老人たちは動いた。
公民として、党員として、また人間として彼らの行いは正当かつ正しい行動であった。
このように自覚的で忠実な党員と愛国者がいたからこそ、党と共和国は過去の苦難の時にもそれを乗り越えるのが可能だったのだ。
しかし1995年には、もはや彼らは忠実な党員とも愛国者とも扱われなかった。
ある道の所在地に位置する道党委員会の庁舎と道人民委員会の庁舎の前には、夏頃から道内の各市や郡から自然発生的に集まった`憂国の士`たちが連日数十〜数百人になり山のようであった。
彼らは、今か今かと事態解決のために根本対策が決定され発表されることを待って座り込んでいた。
出退勤する現役の幹部たちは、その革命先輩たちの`阻止線`に引っかかり、投げかけられる激烈な質問に答えるために脂汗をかいていた。
そうこうするうちに数ヶ月がたって暑さも去り、間もなく落ち葉を散らす北風の吹く季節がさし迫るころになって、事態は暴力的な排除にまで転じ始めた。
冬を目前にして緊急に対策が立てられないならば、人民は群れて死んでいくだけだという判断が、座り込みの人々の焦りに火を点けたのだ。
だがそれが口実となり、すぐさま武装軍人が動員されてその区域は封鎖、座り込みをしていた老人たちは拘束されて`集団的義挙`も強制中止・解散を余儀なくされた。
該当地域の関係者らは道所在地へ呼ばれて、老人を居住地へと追い払った。
日本はじめ外部の言論は、このような出来事について一言半句も報道しなかった。
脱北者ですらその記憶も薄くなり、世界も目を向けないまま、この`事件`は幕を閉じた。
近代朝鮮史のページには、多くの“憂国の士”が記録されているが、90年代の共和国の歴史に彼らが記録されるところはないのだろう。
その1年後、金日成の銅像周辺では年寄りの死体がしばしば発見された。
夜間の警備担当者の安全員(警察)の話によると、その死体は座り込みの老人たちであった。
1年前とは違って誰も訪れる人もなくなった静かなこの“聖地”が、忠実な党員と熱烈な愛国者にはそれでも安心して目を閉じられる最後の安息地になったのだろう。
そんなこととは何の関係もないかのように、銅像の前に伸びる大道路では、重たい背嚢を背負い、大小のリヤカーをひく群衆の波が生き延びるためにもがくように走り回っていた。
続く




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