<核施設の街・ナタンズへの旅>
その1 イラン核技術国民記念日

【 ナタンズ市 野菜の朝市】
イラン暦ファルヴァルディーン月20日、西暦で言えば今年の4月9日を、イラン政府は核技術国民記念日と名づけ、国中で祝祭の式典を執り行うと発表した。この日は、昨年の2006年4月10日、イランが3.6パーセントの低濃縮ウランの製造に成功したことを公表した日であり、その一周年目に当たるこの日をイラン核技術国民記念日と名付け、式典を催すとともに、新たにまた政府から「嬉しいお知らせ」があるという。イラン中部、ナタンズ核施設での特別式典には大統領も出席すると聞き、私は9日早朝、ナタンズへと向かった。
ナタンズの核施設はテヘランからそう遠くない。テヘランの長距離バスターミナルからバスに揺られること3時間、バスはテヘランから南に246キロのカーシャーンに着く。カーシャーンよりさらに南75キロ先のナタンズ市までは乗り合いタクシーが頻繁に出ており、核施設は、カーシャーンとナタンズ市のほぼ中間に位置している。
カーシャーンで乗り込んだ乗り合いタクシーには、ナタンズ市在住の男性が同乗した。彼に、イランの核政策をどう思うか聞いてみた。
「これ以上、問題を大きくするべきじゃないと思うけどね。イランには長距離ミサイルの技術がすでにあるから、核弾頭を搭載する技術くらい、たやすいものさ。もちろん、政府が核兵器を持たないと言っているのは信用してるよ。でも、西側が信用していない以上、問題は大きくなってゆくばかりだよ」
この2年の間に、アメリカとイスラエルがイランの核施設を攻撃するかもしれないという報道が繰り返し行なわれてきた。そうした報道は次第に具体性を帯びてきており、今年2月の報道では、イスラエル空軍がナタンズ空爆を意図して、英領ジブラルタルまでの往復飛行訓練を行なっているとする報道や、ペルシャ湾に停泊中の米空母による4月空爆説が、ロシアの国営放送によって3月と4月に繰り返し報じられていた。もしアメリカが核施設を空爆すると、そこから数10キロしか離れていないナタンズ市を含めた周辺地域は放射能汚染で壊滅する可能性がある。核施設のそばで暮らすことに不安はないのだろうか。
「それは大丈夫。核施設本体は地下深くにあり、しかも厚いコンクリートの壁で覆われてるからね。貫通弾? 知ってるよ。それでも地下施設に被害を与えるのは無理だと思う」
そうこうするうちに、運転手が前方を指差し、核施設に着いたよと教えてくれた。一面の荒野と、背後にはうっすらと砂色のキャルキャス山脈が横たわっている。低い鉛色の空の下で、数基の高射砲が頼りなげに空を睨んでいる。
施設の門前には数台のパトカーが止まり、関係者のものと思われる車両も見られるが、私がインタビューをしたかった熱狂的な保守系市民の姿は見られない。時刻は午前11時、幸い式典はまだ始まっていないらしい。施設内への入場を試みるが、許可証を持った関係者以外、立ち入りは出来ないと丁重に断られた。
周囲を見回してみると、一人の若者が風上に背を向け、寒そうに芝生の上に座り込んでいる。話しかけてみると、彼も式典のためにカーシャーンからやってきたのだという。
「大統領に会えると思ったんだ。会って、仕事をくれって頼もうと思ったんだけどね」
26歳のバスィージ(市民動員軍)だという彼は、現在無職で、アフマディネジャード大統領に直訴するためにやって来たという。バスィージ出身の大統領になら自分の声が届くかもしれないと思ったのだろう。
バスィージ青年と話し込んでいると、パトカーが脇に止まり、職務質問してきた。このとき、パスポートを家に忘れてきたことに気が付いた。早朝、慌しく家を出たせいだ。
「ちょっと来なさい」
式典どころではなくなってしまった。私はそこで1時間ほど待たされたあげく、カーシャーンの警察署まで連行されることになった。パトカーがカーシャーンへ向かう途中、あろうことか『祝!核技術国民記念日』の横断幕を掲げ、核施設へと向かう、市民を乗せた何台ものバスとすれ違った。カーシャーンの警察署では、穏やかながら4時間近く事情聴取され、夕方になってようやく解放された。パスポート不所持では宿にも泊まれないため、そのままテヘランに一旦戻るしかなかった。
その晩、テヘランの夜空には打ち上げ花火が上がり、テレビのニュースではナタンズ核施設での式典の模様と、施設前で熱狂的にイランの核の権利を叫ぶ市民の姿が映し出されていた。そしてこの日、イラン全土の学校では朝9時に鐘が鳴らされ、全校生徒で「核エネルギーは我々の明らかな権利!」、「アメリカに死を!」、「イスラエルに死を!」、「神は偉大なり!」の大合唱が唱えられたという。(つづく)



