爆音のない静かな空を!
〜厚木基地周辺住民、半世紀の訴え〜 第12回 【吉田敏浩】
![]() 【浜崎重信さん】 |
厚木爆同による飛行阻止の実力行使はこの1回だけである。参加者の多くは歳をとり、亡くなった。いまも健在な数少ない一人に、浜崎重信がいる。
浜崎は1920(大正9年、東京の文京区小石川生まれで、今年87歳になる。尋常小学校卒の13歳で、外科手術用の鉗子〔かんし〕を作る医科器械製作の徒弟修行を始め、5年で一人前の職人となった。大和市鶴間〔つるま〕に仕事場兼用の家を建てたのが1957年。一昨年まで注文を受けて仕事をしていた。厚木爆同に入ったのは1963年である。
「日米政府は、厚木基地は必要だとの一点張りで、住民の声を聞き入れず、長年にわたって犠牲を強いています。国策には従えと言わんばかりです。しかし、国民が国家の言う通りに何でも従っていると大きな過ちにつながってしまいます」
そう浜崎が力説する背景には、中国での戦場体験がある。「お国のため、天皇陛下のために戦って手柄を立ててこいと教育を受けた」という浜崎は、19歳で志願して徴兵検査を受け、1940(昭和15)年1月、中国山東省で作戦中の独立混成第10旅団に入隊した。
6ヵ月の訓練を終え、歩兵部隊の軽機関銃班に配属される。初陣では中国国民政府軍のいる村を攻撃し占領した。畑の中を逃げていく母子の姿が見えた。小隊長が浜崎に「撃て」と命令した。
「なぜ村人を撃つのかと一瞬思いましたが、上官の命令は天皇の命令であって絶対です。
従わないとひどい目にあいます。撃ちました。数百メートル離れていたでしょうか。母子
の姿は畑の向こうの窪みに消え、弾が当たったかどうかはわかりませんでした」
![]() 【住宅街の上を飛ぶ米軍FA-18戦闘攻撃機】 |
「逃げる者は必ず殺す。略奪する。婦女は犯す。家を焼く。こうして兵隊は戦争することに慣れていくんです。しかも正義の戦〔いくさ〕だと教えられ、信じ込んでいました。中国人を見下してもいました」
浜崎は伍長に昇進し、1943年11月に復員した。そして翌年2月、召集され、国内で陸軍飛行場の警備などにあたった。そして戦後になり、軍隊時代は遠ざかっていた鉗子作りの職を再開する。
「少しずつ落ち着いて暮らせるようになり、新聞やラジオで東京裁判のことなども知って、軍と政府が国民をだまして戦争に駆り立てていたことがわかりました。日本も空襲で焼け野原になり、私も黒焦げの焼死体をたくさん見ています。戦争で一番犠牲になるのは年寄り、女の人、子どもですね。すると、自分たちが中国でやってきたことは何だったのかと考えざるをえません……」
「ある村で、苦力〔クーリー〕として荷物を運ばせるために男たちを駆り集めたとき、私は高粱〔コーリャン〕畑に隠れている親子を見つけ、30代初めくらいの男を妻子から引き離して連行しました。その夜、男は兵隊の銃剣を奪って逃げようとして取り押さえられます。翌日、尋問に何も答えず、自分で石に頭を打ちつけて死のうとしたので、反抗的だとして小隊長が軍刀で男の首を斬りました。血が噴き出て凄まじい光景でした……」
その記憶は浜崎の心にしこりとなって残っていた。戦後になり、「あの男は自分が連行しなければ殺されずにすんだはずだ。残された妻と子はどうしただろうか」と考え、自責の念を感じ始めたという。
「中国で多くの住民を殺したあの戦争は、正義の戦などではなく大きな過ちだった、侵略戦争だったことに気づいていったんです。だから、これからは国の言うことを鵜呑〔うの〕みにせず、良いことは良い、悪いことは悪いと個人個人が自分の体験や考えに基づいて判断すべきだ、戦後はそういう時代になったんだと思うようになりました」
住民の立場から、国家や軍に対して言うべきことを言う厚木爆同の姿勢、半世紀を通じて形作られた“背骨”を感じさせる言葉である。
(文中敬称略) 〜続く〜





