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‘野中の眼’テレビ論 「臣民化」された民主主義 1 (野中章弘)

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昔、テレビを「茶の間の王様」と呼んでもてはやしていた頃がある。
いまは「茶の間」が消え、そのような物言いをすることはないが、「王様」という言葉はテレビの本質を見抜いている。
なぜなら「王様」は「臣民」を従えることで成り立っているからだ。

「王様」をいただく、従順な「臣民」はむろん、われわれ視聴者である。
長年、毎日3時間30分もの間、「王様」の前にかしずいてきた結果、日本人の「臣民化」はいまや円熟期を迎えようとしている。

「臣民」の対抗概念は「市民」である。
日本国憲法では、国民は「臣民」から「市民」へと変わったはずだが、テレビは端から「市民」たる個人を求めてはこなかった。

それどころか、「政治的な主体としての個人」や「自分の頭で考え、語り、行動する個人」を、テレビは有害で排除すべき対象として嫌う。
「王様」に身も心も委ねながら、「思考停止」する「臣民」こそ、テレビの視聴者の「正しい」姿とみなされてきた。
「王様」が「納豆を食べればやせる」と託宣すれば、「臣民」は納豆を求めてスーパーへ駆け出すことになる。

戦後60余年、私たちは「民主主義社会」の中で生きてきたと信じてきたが、実はこの国に根をおろしてきたのは、「臣民化された民主主義」とでも言うべきものではなかったか。
成熟した「市民」の不在と「擬似民主主義」的な政治、社会のあり方を見て、そう思う。

その意味から、この国における55年間のテレビの歴史は、日本人の「臣民化」を促す歴史だったとも考えられる。
テレビは、権力への「批判」や「抵抗」の芽生える社会的な土壌を無機質なものへと変える、もっとも有効なろ過装置だったのだから。

テレビはテレビを見るすべての人々を「消費者」として対象化する。
CMで宣伝するモノを買う、たんなる「購買者」というだけでなく、国家や資本がテレビを通じて配布する情報の受容者、消化者という意味でもある。

「消費者」は、国籍や民族、宗教を超越した存在であらねばならず、「脱」政治、「脱」文化、「脱」宗教化され、意識を漂白された「消費者」こそ、テレビの求めるもっとも望ましい「臣民」となる。
そこでは「賢い消費者」や「思考する視聴者」は不要である。
テレビは視聴者の意識をある種の「隷属構造」に落とし込むのである。

 〜続く〜


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