人が“資源”と呼ばれる時代に(10)
〜「人的資源」の発想が奪う命と尊厳〜
![]() 【護衛艦「さわぎり」の母港、海上自衛隊佐世保基地。人を“資源”とする考え方をめぐる取材はこの護衛艦の搭乗員だった自衛隊員の自殺から始まった】
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第2章
密かに進む国家総動員計画と資源局
秘密主義の壁の中で
内閣の外局として発足した資源局には、勅任の長官の下、総務課、調査課、施設課、企画課が置かれた。各課の担当は以下の通りである。
総務課は資源の統制運用に関する制度と施設の研究、必要な法令の準備立案、人事・文書・会計。
調査課は資源の現況調査と戦時需給調査。
施設課は資源の培養助長、統制運用計画を遂行するための施設の設置。
企画課は資源の統制運用機関の整備計画、資源の補填や配当など統制運用の計画づくり。
資源局の初代長官には、賞勲局(勲位・勲章などの栄転に関する事項を扱う)総裁だった宇佐美勝夫が就任した。
しかし、資源局の設置を立案したのは、法制局参事官の松井春生であり、当初は総務・企画課長を兼任し、後に長官として資源局運営の中心的役割を担った。
調査課長には商工省の植村甲午郎(戦後、経団連の会長になる)が、施設課長には農林省の宮島信夫が就いた。
資源局の特異な点は、職員のほぼ半数を、陸海軍から出向してきた中佐・少佐クラスの軍人が占めていたことである。
かれらは兼任事務官という立場で、資源の調査や統制運用計画すなわち総動員計画の策定に主導的な力を振るった。
さらに資源局参与として陸軍軍務局長の阿部信行中将、同整備局長の松木直亮少将、海軍軍務局長の左近司政三少将らが影響力を及ぼした。
資源局の業務は秘密性の高いものだった。内閣恩賜局から資源局に移ってきた文官の内田源兵衛は、当時を次のように回想している。
「やたらに秘密が多いんです。たとえば総動員計画なんか担当事務官でさえ、書類を家に持って帰れない。ひと口に計画といっても、半ば永久不変の根本方針にあたる基本計画と、以後何か年の間に開戦したら適用するという期間計画の二本立てになっているんです。基本計画関係の関係書類は表紙が赤、期間計画の方はピンクで、わたしたちは通常『赤本』というように呼んでいましたが、それというのも、絶対に外部へ持ち出してはならぬという意味で色をはっきりさせていたのだと思います。各人に渡すにしても、すべてナンバーがふってありましたからね、いいかげんな取り扱いはできないわけです」(『昭和史の天皇』16 読売新聞社編 読売新聞社 1971年 153頁)
『国家総動員史』上巻によると、「国家総動員計画」に関する閣議決定などの重要資料は極秘扱いで、資源局の幹部と各省庁からの参与や兼任事務官以外には、政界・官界の上層部の人間に対しても、その存在を完全に秘匿されていたのである。
〜つづく〜
(文中敬称略)





