人が“資源”と呼ばれる時代に
「人的資源」の発想が奪う命と尊厳(11)
第2章 密かに進む国家総動員計画と資源局
![]() 【1927年、第26代内閣総理大臣となった田中義一】 |
侵略に向かう時代とともに
1927(昭和2)年5月に資源局が設置されるよりひと月あまり前の4月20日、元陸軍大将で政友会総裁の田中義一が首相になった。
資源局設置の翌日5月28日には、第1次山東出兵に踏み切ったように、対中国強硬路線が田中政権の特徴であった。
蒋介石率いる国民革命軍による北伐に備えて、日本人居留民の保護を名目に、関東軍を山東省青島に派兵したのだが、その真の目的は中国での権益拡大であった。
満蒙(中国東北部の旧満州と内蒙古)を中国から切り離して支配すること、さらに華北(中国北部)での勢力拡大を、政府と軍部はもくろんでいた。
このような帝国主義的政策は、1927年6月から7月にかけて、閣僚と外務省官僚と関東軍司令官らが東京で会した「東方会議」での、「対支政策綱領」にも盛り込まれた。
以後、1928年の第2次・第3次山東出兵、関東軍の謀略による張作霖(満州の軍閥)爆殺事件と、中国侵略に向かう歴史の歯車が回ってゆく。
田中政権はまた、治安維持法の最高刑に死刑を加え、特高警察を全国の県に設置するなど国内の治安対策でも強硬路線をとった。
1928年3月15日の全国的な共産党員の一斉大検挙(3・15事件)をはじめ、社会主義勢力への弾圧が相次いだ。
当時の世相を見ると、1927年7月24日に作家の芥川龍之介が、「唯ぼんやりした不安」の言葉を遺し、36歳で自殺している。
同じ月に岩波文庫の刊行が始まり、9月には宝塚少女歌劇がレビュー「モン・パリ」を初演。12月に日本初の地下鉄(東京の上野・浅草間)が開通し、翌年8月には東京・大阪間で旅客機の飛行が開始した。
1928年7月のアムステルダム・オリンピックでは、陸上と水泳で日本人が初の金メダルを獲得している。同年11月、警視庁はダンスホールへの18歳未満の男女入場禁止の取締り令を実施した。
1929年春、大卒者の就職難が深刻化し、「大学は出たけれど」が流行語になる。同じ頃、寿屋が初の国産、サントリー・ウヰスキーを発売した。
このような時代を背景に、国家中枢では資源局による総動員計画づくりが極秘のうちに、着々と進んでいった。それは1929年7月に浜口雄幸内閣が成立してからも続き、「資源分類表」も整えられる。
当時の大多数の日本人は、自分たちがごく限られた軍人と官僚の手で通し番号付きの「人的資源」、馬や物資と同じ使い捨ての資源と位置づけられているとはまったく知らなかった。
ここに「人的資源」の発想は、日本近現代史のなかにビルトインつまり内蔵されていく。
しかし、さらにそのルーツを知るには、日本陸軍の高級将校らが第1次世界大戦に触発され、国家総力戦体制の研究に取りかかる大正時代にまで遡らなければならない。
〜つづく〜
(文中敬称略)





