人が“資源”と呼ばれる時代に
「人的資源」の発想が奪う命と尊厳
第3章 日本陸軍の国家総力戦研究と「人的資源」
![]() 【日中戦争で中国に侵攻した日本軍部隊】 |
永田鉄山は『国家総動員に関する意見』を作成後まもなく、1920年9月から3度目のヨーロッパ派遣に旅立った。同年11月からウィーンで駐オーストリア公使館付武官を半年ほど務めたあと、翌年6月には駐スイス公使館付き武官に任ぜられた。
『秘録 永田鉄山』によれば、永田は第1次世界大戦後の国際情勢を観察しながら、政治・軍事・経済などの情報収集に励んだ。そして、日本陸軍の編制と装備の近代化、国家総動員体制の確立に向けて決意を強めたという。
1923(大正12)年4月に帰国した永田は、中佐に昇任し、翌年、陸軍省軍務局軍事課課員になった。26年には、国家総動員体制づくりのために新設された陸軍省整備局の動員課長に抜擢された。
ちょうどその時期、陸軍からの働きかけもあって、国会でも在郷軍人将官の議員らを中心に、国家総動員の準備のため統合機関の設置を求める声が高まっていた。
1924年には、衆議院で「国家総動員ニ対スル準備ヲ遺憾ナカラシムル為」に「防務委員会設置ニ関スル建議」が、貴族院でも「国防ノ基礎ハ国家総動員ニ在リ」として「国防ノ基礎確立ニ関スル建議」が決議された。
その際の論議のなかにも、「自国の有する一切の資源、人、物資、財力」などを「すべて統制して」といった言葉が見られる。
こうして1926年4月、時の若槻礼次郎(憲政会)内閣の下に国家総動員機関設置準備委員会が設けられた。委員長には法制局長官が就き、各省の局長クラスが委員に任命された。
永田は国家総動員研究の第一人者として陸軍側の幹事に任命され、審議の取りまとめにあたった。
その結果、1927(昭和2)年5月に、田中義一(政友会)内閣の下で、国家総動員の中央統轄機関として資源局が設置されるのである。同年12月、永田大佐は、大阪中央公会堂で「国家総動員に就て」という講演をした。
「国家総動員とは、……中略……国家が利用し得る有形無形、人的物的のあらゆる資源を組織し統合し、運用いたしまして、最大の国力的戦争力を発揮する事業」で、「人的資源の方面では、肉体労力の方面も霊即精神の方面も、両者を含んで居ります」と語っている
(『永田鉄山論』松下芳男著 小冊子書林 1935年 39〜40頁)。
永田は1934年、少将で陸軍省軍務局長に就任し、陸軍の有力派閥である統制派の中心人物と目される。そして翌年8月に、統制派と対立する皇道派の相沢三郎中佐によって斬殺された。
だが、永田の死にもかかわらず、彼が中心となって敷いた国家総動員の路線は軍と政府のなかに定着し、1938年には近衛文麿政権の下で国家総動員法が制定された。前年にはすでに日中戦争が、中国への侵略が始まっていた。
日中戦争からアジア・太平洋戦争の期間を通じて、国家総動員法に基づき、国民徴用令、船員徴用令、学徒勤労令、女子挺身勤労令、国民勤労動員令など、国民を「人的資源」として国家総力戦に動員する勅令が次々と公布施行された。
「人的資源」とされたのは、決して日本人だけではない。戦争の長期化と労働力の不足に直面した日本政府と軍は、植民地支配下の朝鮮にも国民徴用令を適用し、強制徴用・強制連行による動員をおこなった。
中国の占領地からも中国人を強制連行した。占領した東南アジアにおいても、強制的な労務者動員をおこなった。連合軍の捕虜も強制労働に就かされた。
数多くの人びとが鉱山で、工場で、ダムや飛行場や鉄道などの建設工事で、強制労働をさせられた。暴力を伴う虐待、飢え、病気、怪我などによる死傷者も多く出た。
国家総動員の対象が日本人だけに限らないことは、すでに陸軍内の調査研究の段階から構想に含まれていた。
『全国動員計画必要ノ議』でも、具体的に研究すべき事項のひとつとして、「植民地ノ土人ニ課シ得ヘキ本国援助ノ程度殊ニ労働力物資ノ融通ニ関スル調査、計画」が挙げられている。
『国家総動員に関する意見』にも、「俘虜の使役、国外労力の利用」が説かれている。
大東亜共栄圏の大義を掲げた戦争も、その実態はアジア・太平洋地域の「人的資源及び物的資源」を支配し、統制運用するためのものだったといえる。
「人的資源」の発想が日本内外を問わず、おびただしい人びとに惨禍をもたらしたことはまちがない。
〜つづく〜 (文中敬称略)
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