会員記事 一覧

...私と同年代の、(誰の紹介だったかは忘れましたが)一人の女性の情報を覚えていました。その女性は吉林省の田舎の方に住んでいる人で、面識はありませんでした。私は、知人の助けでその人の生年月日や家族関係、住所などを教えてもらい、もし道端などで警官に出くわしたときに備えて、忘れないようにずっと覚えていたのです...
2012年4月15日 12:20
◇「電気も来ない。飢えて死ぬ人も」
国際社会の注目を一身に集めた「ロケット発射」が行われた13日午前、アジアプレスは北朝鮮内部の取材協力者との通話を試みた。その内容からは、ひどくなる一方の生活苦と、それを顧みない政府への静かな怒りが浮かび上がってきた。現地の状況を報告する。
2012年4月14日 19:31
...逃げる間もなく、一人は責任者を呼び、二人はすばやく厨房の方に行って裏口をふさいで、誰も外に出られないようにするのです。店長を呼んだ警官は、片隅に集められた私たちに、警察署まで同行するよう求めました。検問の一環と言って、署で調査を受けてなにもなければ、すぐに帰ってもいいということでした...
2012年3月25日 19:44
...絶対に捕まってはいけないという強迫観念は、私を異常なまでに敏感にさせました。遠くに警察の制服を着た人がちらっと見えただけで、私は逃げるように来た道を戻り、違う道に逃げ込むほどでした...
2012年3月15日 20:00
...頭のあちこちにたんこぶができて、背中は全部あざで青くなり、全身が痛みました。でも、その痛みよりも私を苦しめたのは、胸の痛みと悲しみでした。暴漢に襲われても被害届どころか、自分が先に逃げなきゃいけない。あれだけひどく殴られながら命がけでも守らなきゃいけない1枚のカード...
2012年3月 4日 13:02
...後ろへ振り向くと、既に目の前に迫っていた数人の男たちが、肩にかけていた私のカバンの紐を思いっきりひっぱりました。「タッ」と片方の紐が切れ、その反動で私は体の中心を失いよろけて、その場に座り込んでしまいました...
2012年2月24日 10:05
...友達といくら仲良くなっても、私は、自分の秘密を一度も口にしたことがありませんでした...私が「脱北者」であるということが口伝てに広まってしまうと、それがどれだけ危険なことなのかを、私はよく知っていました...
2012年2月17日 11:52
...その人たちと一緒に観た初めての映画が、「シュリ(1999年公開)」でした。韓国の情報部員と北朝鮮工作員との悲恋と戦いを描いた、当時としては超話題作だったそうです。そのお姉さんたちが、なにがしかの意図があって、そんな内容の映画を見せてくれたとは思いませんが、偶然にも南北関係を描いた作品を、韓国の留学生たちと一緒に観ることに...
2012年2月14日 14:05
...15000元あれば、田舎の戸口(戸籍)を買えるというのです。戸籍さえあれば、毎日不安に怯える必要もないし、自分がやりたいこともできる。追われ隠れて暮らすつらい潜伏生活が終わる日が来るかもしれないという希望が、私の胸を躍らせました...
2012年2月 7日 14:10
...生まれて初めて見る海はきれいでした。一瞬時なりとも安心することができない潜伏生活で、心身ともに疲れきってしまった私には、海辺を歩きながら味わうわずかな安らぎが、夢のような時間でした。依然隠れて暮らす境遇には違いないけれど、新天地でまた違う形で生きていけるかもという希望も湧いてきました...
2012年2月 3日 12:06
...おどおどして間抜けに見える私が、格好の対象に見えたのでしょう。とても優しい声で話かけてきて、夜の店などで働かないかと誘ってくる人もいました。あるときは、韓国人社長や課長が暮らすアパートで、ご飯や掃除をする仕事だといわれて行ってみると、社長が一人で住んでいると知って、その場で帰ってきました...
2012年1月31日 13:54
...一人で仕事をみつけないといけない重圧感...。言葉を失っているかのように暮らしていたせいか、なかなか声が出ないし、どういう風に話をするのかすら忘れた感じでした。のどの奥につっかえている言葉を口に出したかったのですが、どうしてもできなくて、私は断念して外に出ました...
2012年1月26日 20:49
...以前のように、いい仕事をみつけるために交渉の繰り返しなわけです。イモはすぐにまた次の仕事先をみつけました。私もまたイモについて行きました。その後も、イモについてあちこちの店を渡り歩く生活が続きました...
2012年1月24日 11:10
翌日から、一日13~14時間の重労働が始まりました。厨房の掃除や洗い物に加え、寒い日にもよく売れる冷麺を洗う仕事も任されました。シンクに水を張って、氷をいっぱい入れては、茹で上がった麺を素早く洗い絞って器に盛るのです。そんな仕事を数日間続けたら、手足はパンパンに腫れあがり、体が鉛のように重くなりました...
2012年1月19日 13:39
...中国は決して「地上の楽園」ではないということ、私は他国に逃げてきた亡命者に過ぎないこと、ここ中国では、私は生きていても死んだのと同然であること、ここで捕まったりでもすれば、容赦なく北送(北朝鮮に送り返)され、家畜同然に扱われること、これからずっと警察や他人の目を避けて、陰で死んだように暮らさなければならないこと、夢や勉強、やりたいことどころか、皿洗いの仕事でもあることに感謝しながら、その日その日を延命するしかないということ...
2012年1月17日 09:17
最初にイモについて仕事を探しに行ったときのことは、いまも忘れることができません。それは私にとって、生まれて初めての「職探し」の経験だったのです。私も大人たちと同じように、生活前線(日々の糧を得るための現場、といったらいいでしょうか)に立ったのです。西塔の大通りにずらりと並んだ百貨店や料理屋、カラオケ...
2012年1月14日 11:58
...生きていくためにも仕事をみつけることが、私たちの早急の課題でした。瓦礫の中でともに暮らす、貧しくも優しい住民たちの助けもあって、弟は小さな製造系の工場に、母と私は食堂にと住み込みの仕事を見つけて出て行くことになりました...
2012年1月11日 10:23
  ...瀋陽にある東西南北の塔の一つである西塔の周辺には、コリアタウンのようなところがあり、韓国人や朝鮮族の人たちがたくさんいました。私たちは、その西塔の近くで、安い料金で家を借りたのです。その家は、新しい建物を建てるために元の建物を解体した跡地にありました...
2012年1月 9日 10:00
...これからどんなことが起きるのか、私たちはどうしたらいいのか、全く予測もつかない中で私たちの唯一の拠りどころは、私たちを川辺のダムからここまで連れてきてくれた通訳の男性でした。その方が信用できる人なのかどうかなど気にしていられない私たちは、藁にもすがる気持ちだったのです...
2012年1月 6日 09:29
...私はもうダメだと思いました。胸の下まで泥濘にはまり込み、もう動きようがなく、自由なのは両腕だけでした。息をするのがつらくなって、このまま頭まで沈み込んでいくことを想像すると、悔しくて涙が出ました。中国がもうすぐそこなのに!...
2011年12月29日 12:43
...「とにかくあの明かりに向かって走るのよ。あと30分もすれば、満ち潮で水かさが増してくる。そうなると、間違いなく溺死だ。とにかく走れ!」母の言葉を合図に私たちは走り始めました。凍りかけの泥に足が沈み、まともには走れず、とにかく必死に、必死に走りました...
2011年12月27日 16:11
...すぐそこで、銃を持った警備隊員が一定距離を一定間隔で行ったり来たりしながら、警備を行っているのです。弟が、警備隊員が一番遠くに離れる時間を計りながら、前を注視していました。そして母は私の耳元で、これからの行動計画を説明してくれました...
2011年12月21日 13:26
...「今日私たちがやろうとしていることは、本当に危険なことなの。私たちはいま生きるか死ぬかの瀬戸際に立っているの。でも、きっとうまくいくから。だから希望を持って進もう。私たち、絶対にここを乗り越えて、3人とも生きて会おう!」...
2011年12月19日 09:18
「死ぬかな...、生き残るかな...、もしや捕まる?...、いや、それはない。捕まるならいっそのこと死んでしまおう!」。18年間の思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡りました。嬉しかったこと、悲しかったこと、つらかったことが、まるで映画のフィルムのように再生され、すごく重くて尖がったものでゆっくりと胸を押さえつけられるような痛みが走りました...
2011年12月15日 11:29
...母が一番前、次に大きなリュックを背負った弟、そして私が一番後で歩いていました。突然、母が立ち止まり、辺りを見回した後、右手にある細い道(道というよりは、人が通ったことで葦が踏み倒されてできた獣道ならず「人道」)に入って行きました...
2011年12月10日 20:55
真冬並みに寒い11月末のある日、母と弟、そして私は、ある島へ行く船に乗っていました。新義州よりも中国に近い国境地帯―X島に行くためです(方向音痴である私は、新義州と中国の某市間にある島というくらいしか分かりません)。中国商人の船と取引(おそらく密輸)が行われるところで、実際に武装した警備隊がたくさんいるそうです...
2011年12月 7日 15:36
国営石炭産業は市場の力に吸引されるようにして少しずつ形態を変えつつあるが、それとは別に石炭産業の構造を変えたものに軍部の関与がある⋯
2011年12月 6日 10:32
私は取材を通じて、アフガニスタンとどう向き合えばいいのか、ずっと考え続けてきた。 タリバン政権崩壊後、女性が再び教育を受けることができるようになり、公務員や教員などの役職にも復帰しつつある。一方で、とくに地方の女性がおかれた状況が大きくは変わったわけではない...
2011年12月 6日 05:24
...当時、新義州市から中国へ脱出する人はほとんどいませんでした。新義州と向かい側の中国丹東市の間には鴨緑江下流が流れていて、船がないと渡れないほど川幅が広く、警備も大変厳しかったのです。物理的に難しい部分もあって、そういう発想がなかったのかもしれません...
2011年12月 3日 12:09
...「もう希望はない」と、母は、私と弟に言いました。私たちに残された道は、戸籍が移された辺鄙な農村に行って、死ぬまで延命するだけだと言うのです。頭の中が真っ白になりました。農村に行くことが嫌というより、私自身には何の罪もないのに処罰を受けなければならないということが、悔しく...
2011年11月30日 11:20
メディアとジャーナリズム
Yahoo!ブックマークに登録する はてなブックマーク Buzzurlに登録する Google Bookmarksに登録する ニフティクリップに登録する newsingに登録する
[PR]
APN会員募集中