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リムジンガン1号~7号

アフガン支援23年・西垣敬子さん 終戦時の記憶、現地に重ね(玉本英子)

イラン第二の都市マシュハドに語学留学した西垣敬子さん(右)と20代のルームメート。(2017年11月撮影・西垣さん提供)

◆アフガニスタン渡航42回、女性や子どもたちを支援

私はこれまでたくさんのすごい人を見てきた。その中でも飛びぬけているのが西垣敬子さんだ。兵庫県宝塚市在住、82歳。宝塚アフガニスタン友好協会の代表として、23年間で現地に42回通い、女性や子どもたちを中心とした支援活動を行ってきた。(玉本英子・アジアプレス)

西垣さんを知ったのは18年前、関西でのある報告会だった。当時のアフガニスタンはタリバン政権下。女性の教育は禁じられ、住民がひそかにつくった隠れ学校で読み書きを習う女児もいた。勉強を教える女性たちの給料を支えるために、西垣さんは日本で寄付を集めていた。

2001年、米軍主導の有志連合がアフガンを攻撃、タリバン政権は崩壊した。取材でカブールに入った私は、現地入りしていた西垣さんと数週間、同じ民家に滞在した。戦闘でライフラインが破壊された家には電気や水もなかった。夜、懐中電灯のあかりのなか、話を聞いた。内戦で片足を失った少女の義足支援をしていた西垣さんは、少女の写真を見せながら「私のことを母親のように慕ってくれるのがうれしい」とほほ笑んだ。

支援活動を始めたきっかけは、東京で開かれたアフガニスタンの写真展。内戦に苦しむ人びとの姿にショックを受けたという。主催者へ連絡し、写真の貸し出しの許可を得て地元宝塚で同じ写真展を開催。自分も支援がしたいと1994年、59歳のときにパキスタン国境に近い国内避難民キャンプに入った。そこでは、多くの赤ちゃんが暑さで命を落としていた。「アフガンの子どもたちと幼い頃の自分が重なった」と言う。

台湾で生まれ、終戦時は10歳だった。着の身着のまま、家族4人で引き揚げ船に乗り佐世保港に着いた。日本には家もなく、大阪の親戚の家に身を寄せた。「私も難民と同じでした。内戦で故郷を追われた人びとの力になれればと思った」

タリバン後、西垣さんはアフガニスタン東部にある大学の女子寮などの施設を建設した。過酷な地域での活動を支えてきたのは地元アフガンの人たち。「日本のお母さん」と皆から愛された。無理をせず、安全面を最優先に動いてきた。

若い頃に大学で中央アジアの仏教美術史を専攻していたこともあり、3年前にはイスラム美術に関するペルシャ語論文を翻訳、自費出版した。高齢になったこともあり、昨年春、支援活動にいったん区切りをつけた。しかし、西垣さんは、そこからがまたすごい。

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