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憲法の「GHQ押しつけ論」は本当か(1)~草案は民間の英知

apn_080714_yoshida_00047月の参院選で改憲勢力が3の2を超える議席を確保した後、初めての参院審査会が11月16日、開かれた。「憲法に対する考え方」をテーマに8会派の代表が意見表明し、自民党は「現行憲法は主権が制限された中で制定された」と、連合国軍司令部(GHQ)による「押しつけ憲法」論を主張。17日に再開した衆院憲法審査会でも、自民党は「GHQが関与したことは否定できない事実だ」と指摘した。改憲派が現行憲法の無効を訴える拠り所としている「押しつけ憲法」論。歴史学の見解はどうなのか、大阪大学・大学院助教の北泊謙太郎さん(日本史学)に話を聞いた。(矢野宏/新聞うずみ火)

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◆日本国憲法ができるまでの流れ
1945年8月15日敗戦。日本は「ポツダム宣言」を受け入れて降伏した。10月11日、GHQのマッカーサー司令長官が幣原喜重郎首相と面談。ポツダム宣言実施のために憲法改正が必要であることを示唆する。ポツダム宣言には「民主主義的傾向の復活強化」と「言論、宗教及び思想の自由並に基本的人権の尊重の確立」(第10項)、「日本国国民が自由に表明した意思による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める」(第12項)ことが規定されており、ポツダム宣言に反する憲法を制定することは国際法上許されなかった。10月25日、幣原内閣は、松本烝治国務大臣を委員長とする「憲法問題調査委員会」を設置した。

一方で、ソ連がGHQ主導の占領政策に激しく反発。12月にモスクワで米英ソ外相会議が開かれ、日本を共同管理する最高政策決定機関として「極東委員会」を46年2月下旬に設置することを決定。極東委員会が指導すると、GHQはその管理下に置かれ、日本の憲法改正にも事前承認が必要となる。構成される11カ国の中には、ソ連やオーストラリアなど、天皇を戦犯として訴追すべきだと主張する国も含まれていた。46年1月24日、幣原首相がマッカーサーを訪問、天皇制の存続を確認する。後にマッカーサーは「この会談で幣原首相が戦争放棄の規定を入れると努力したいと述べた」と証言している。

2月1日、憲法問題調査委員会が作成した憲法草案を、毎日新聞がスクープ。明治憲法の部分的な修正に留まる内容で、天皇の統治権もそのまま認められていた。
マッカーサーは日本政府に任せても、民主的な憲法草案はできないと判断。民政局で法律や行政を担当するスタッフを緊急招集し、憲法改正の必須条件として、「天皇制維持」「戦争放棄」「封建制度の廃止」の3項目を指示。与えられた期間は1週間――。

北泊さんは「天皇制を残して日本を間接統治するためには、極東委員会が口を挟んでくる前に、天皇を象徴として残しつつ民主化する憲法草案を作らなければならなかったのです」と説明する。

GHQは毎日新聞のスクープから10日で「象徴天皇」と「戦争放棄」を骨格とするGHQ草案を作成し、2月13日、日本政府に受け入れるよう迫った。現行憲法が「押しつけ」と言われる所以である。
「天皇の存在をどうするのかが大きな課題でした。国のあり方を決めることですから。天皇を元首としてどれぐらいの権限を持たせるかという考えから抜け出せなかった。当時の日本政府の手では民主的な憲法は出てこなかったということです」

幣原首相は、天皇制を守るためにGHQ草案の受け入れを決め、これを元にして政府案の作成を指示する。

3月6日、幣原内閣は「憲法改正草案要綱」を閣議決定。

4月10日には、憲法改正を争点とした戦後初めての衆議院選挙が行われた。政府の憲法改正案が帝国議会に提出され、審議と修正が行われた。
新しい憲法の制定は明治憲法を改正する形となり、明治憲法73条の改正手続きに従って進められた。改憲案は衆議院では2カ月の審議の末に421対8で、貴族院では1か月半の議論を重ね、298対2という圧倒的多数によって可決。11月3日に公布され、47年5月3日施行された。(つづく)

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