リムジンガンのご案内

ico_new.gif北朝鮮―またも始まった市場の「抑制」 リムジンガン
「民衆はだんだん嫌になっています」3
いまや大企業なみのジャンマダン
チョン:ジャンマダンでは国家の儲けも多いはずなんだが。例えば、私が市場で靴の商売をやるとすると、幅五〇センチぐらいの売り場を設けてくれる…

ico_new.gif北朝鮮―自転車ばかりを狙う軍人強盗団 [事件・事故] リムジンガン
二〇〇六年一一月末、清津(チョンジン)市で自転車ばかりを専門的に強奪する強盗団があちこちで暗躍したため、保安員(警察官)が捜査に入った…

ico_new.gif北朝鮮―またも始まった市場の「抑制」 リムジンガン
「民衆はだんだん嫌になっています」2
「おばけのやりかた」
シム:市場ぐらいは大目に見て好きに商売させてくれればいいのに。そうすれば人々の苦痛も軽くなるだろうに…

ico_new.gif北朝鮮―女児強姦犯逮捕 [事件・事故] リムジンガン
二〇〇六年夏、清津市で二四歳の男による九歳の女の子への強姦事件が発生した。女の子はその日も友達と、近所にある廃屋の周りでかくれんぼをして遊んでいた。 夕方、このあたりでは見かけない男が…

ico_new.gif北朝鮮―「私は政治犯収容所に10年いた」 リムジンガン
北倉(プクチャン)18号管理所出所者の証言 9
「隊内民」たち
さて、わが家のあの冷凍機はどこに売られたのか? ジャンマダン(市場)は「管理所」の中にはない。店といえば…

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少林寺拳法グループ総裁・宗由貴 自分らしく生きたい 第2回

戦争の記憶が原点となる
(少林寺拳法グループ総裁・宗由貴と野中章弘(アジアプレス)との対談です)

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野中
 少林寺拳法の創始者である由貴さんのお父さんが中国に渡ったのは17歳のとき。経歴を読むと、「特務機関」というところで働いていたことになるんですよね。その経歴だけを読むと、彼は戦争を遂行する側にいたんじゃないかというふうに見えるのですが、実際はどうだったのでしょう。


 戦争を肯定することはなかったですね。ですが、やはり父なりに信じていた部分というものはあった、と思います。要するにアジアのそれぞれの民族の共栄という大儀に、父なりのある夢を持ったり、自分も馬賊になりたいとか、大陸浪人になって横断するなど…。そういう意味でいうとアジアというのをものすごく意識している人でした。そういう時代だったのでしょうね。

野中
 確かにそういう時代の雰囲気はありましたよね。


 だから、父なりの信念はあったのだと思います。でも、実際に父が中国へ行ってみたら全然そうではなかった。最初が敗戦のときですよね、ソ連の侵攻があったときです。ことごとく信じていたものに裏切られるというか、そういう国家というものの怖さを含め、ものを考えさせない教育の怖さなどというものをものすごく感じていたのだと思います。当時の父としては、そこで生きるためにどちらにも自分を迎合させることができたと思うのですけれど、父はそれをしなかった。そういう意味で言ったら、どちらにもつかないというより、自分の価値観を持って頑張った人だと思うのです。

野中
 少林寺拳法は自己確立を説いています。最初におのれを確立しないと他人にかかわることもできないと説いていることや、すべてを他人に依存するのでなくて、すべては自己の中に、自己を見つめて、自己の中によるべきものがあると言っています。多分、お父さんはそういうことを中国で実践されたということになりますか。


 そう、すべてが実感だったと思うのですよ。

野中
 開祖であるお父さんが、例えば中国に行って、ひょっとしたらアジアの解放とかというようなことを考えたかも知れませんし、そういう当時の思想みたいなもの、世の中の主流を占めていた思想みたいなものに影響されていたのだと思うのですが…。ですが、先ほど由貴さんもおっしゃったように、現実は国家に裏切られたり、必ずしも理想通りにはいかなかった。人間の利害だとか、人間の醜い部分だとか、いろいろなことを見ていく中で、「自分というものをしっかり持たなければいけない」というふうに、感じられたのではないかと思うのですね。自己というものをきちんと持った上でないと、社会と関わっていくということや、社会に対して何かをするというようなことはやはりできないと思うのです。だからまず、自分をしっかり持つ、そういう自分になるためのひとつの道具、もしくはひとつの訓練として少林寺拳法というような技を身につけていくということを考えられたのではないでしょうか。 

野中
 少林寺拳法は自己確立を説いています。最初におのれを確立しないと他人にかかわることもできないと説いていることや、すべてを他人に依存するのでなくて、すべては自己の中に、自己を見つめて、自己の中によるべきものがあると言っています。多分、お父さんはそういうことを中国で実践されたということになりますか。


 そう、すべてが実感だったと思うのですよ。

野中
 開祖であるお父さんが、例えば中国に行って、ひょっとしたらアジアの解放とかというようなことを考えたかも知れませんし、そういう当時の思想みたいなもの、世の中の主流を占めていた思想みたいなものに影響されていたのだと思うのですが…。ですが、先ほど由貴さんもおっしゃったように、現実は国家に裏切られたり、必ずしも理想通りにはいかなかった。人間の利害だとか、人間の醜い部分だとか、いろいろなことを見ていく中で、「自分というものをしっかり持たなければいけない」というふうに、感じられたのではないかと思うのですね。自己というものをきちんと持った上でないと、社会と関わっていくということや、社会に対して何かをするというようなことはやはりできないと思うのです。だからまず、自分をしっかり持つ、そういう自分になるためのひとつの道具、もしくはひとつの訓練として少林寺拳法というような技を身につけていくということを考えられたのではないでしょうか。


 日々の練習によって少林寺拳法の技が上達するとか、それはそれで自信を持てることにつながると思うのですが、その自信の持ち方を間違えると、これはかえって少林寺拳法の世界にとって逆効果になるのです。父は「何のために少林寺拳法を習得するのか」ということにものすごくこだわった人だったんです。
最近になって、私は「ああ、そうか」と分かったことがありました。それは、父のそういう「生きる力を持たなくては、自己確立しなくてはならない」と思うに至った原点というのは、父の妹との関係がもたらしているんですね。

 父は、小さいときに両親を亡くして、妹が2人いました。ですが、その妹も亡くしているんですよね、大陸へ行く前に。両親がまだ生きていたころ、母親が父に暴力を振るわれたときに助けてあげられなかった悔しさなど、そういう話などを私はもう何度も聞かされてきました。
その後、父親も母親も亡くなり、父と姉妹たちは親がいなくなったので預けられるんですよね。妹たちは、たまたま母親がある宗教団体に入信していて、そこの施設に預けられたのです。

 私はずっと、この妹たちのことを物語のように聞かされてきました。特に聞かされたのが、智恵子という妹のことです。この妹が最後に病気になってしまって、父は施設に呼ばれたそうです。久しぶりにお兄ちゃんに会えてうれしかった妹は「おまんじゅうが食べたい」と言ったんですって。父は、「これは何とかしなければいけない」と思ったそうで、夜におまんじゅうを買いに行ったんです。夜でしたから、おまんじゅう屋さんは閉まっているんですね。ですが、父は木戸を叩いて外に出てきてもらって…。当時、甘い物というのはすごく高価な食べ物だったんです。父がその時に持っているお金では1個も買えないほど。だけど、父は事情を説明して、ひとつだけおまんじゅうを分けてもらったのです。妹に食べさせてやろうと思い、「ほら、持ってきたぞ」と言って食べさせてあげようとするけれども、結局、彼女は食べられなかったそうです。それで、そのまま父の妹は死んでしまいました。その話を、父は泣きながら何度も私に話しました。「してやりたいと思ってできないつらさ。もっと自分に力があったら、もっと早く妹をそこから引き取ってやれていたら」という思いがすごくあったのでしょうね。何かしたいと思っても、自分に知恵とか力とか、それがなかったら何もできないという思いがすごくあったのだと思います。そして、それが父の原点だったんですね。

野中
 愛しい人間に対して、自分が何もできなかったという、そのつらさですね。それからやっぱり、人間のつらい心に対して、それを感じる気持ちというか、他人の痛さを自分のものとして感じる気持ちというか。たぶん、戦争反対とか平和を求めるという、そこの原点には、そのような「人間の痛み」とか「悲しさ」に対する想像力みたいなものがあると思います。それは、由貴さんのお父さんだけではなくて、「戦争をしない」という思いや「人を殺したらいけない」という原点に、何かそういう経験というか、体験があることが多いと思うのです。由貴さんは、そういう体験をご自身が経験しているわけではないけれども、そのような価値観を持つようになったのは、やはりお父さんからそういう話を聞かされていたことが心に浸透していたのでしょうね。


 父は、本当に繰り返し繰り返し、私に話を聞かせていました。ですから、ある部分、自分がそこにいるのではと想像ができるほど、話の詳細を覚えているのです。当時、私はもちろん生まれていなかったのですけれども。

野中
 僕もいろいろな戦争の現場とか、そういったところに行って、戦争が人間のすべてを破壊してしまうということを見てきた経験があります。ですが、つらつらと僕自身を振り返って考えてみると、やはり僕も親父から戦争の話というのをすごく身近に聞いていた世代なのですね。

 親父には男の兄弟が4人いました。一番上の兄貴は、敗戦のときにシベリアに抑留され、2年ぐらいシベリアにいたと記憶しています。それで帰ってきたのですが、よく覚えているけれども、身体がガリガリに痩せていてね。復員してからもガリガリのままでした。抑留時代のことは一切話さなかった。親父もそのときの話は余り聞いていない。後になって、一番上の兄貴の友達とかから、その当時の様子というのを漏れ聞いたのですが、とてもつらい体験だったという話を聞いて…。彼は一生ガリガリのまま死んでしまったわけなんですよね。

 親父の2番目の兄貴は、やはり中国で戦死しています。戦死したときの状況というのを当時の戦友から聞いたのですが、ものすごい激戦だったということです。とにかくずっと地べたにはいつくばらないと弾に当たりそうなほど激しかったと。親父の兄貴は、戦闘の最中にちょっと頭を上げてしまい、弾が当たって死んじゃったそうです。
3番目の兄貴は、パイロットでした。戦争末期は練習機といっても整備が十分ではなくて、結局彼は、練習機の墜落事故で死にました。それで、4番目が僕の親父になるのですが、親父は徴兵されたんだけれども、結局まだ若いということで、外地に行く前に敗戦になったということです。

 僕の母親は女学生のころ、「野中家」に養子に入ってきました。そこの跡取りが戦争に行ったため、もし戦死すると家が途絶えるというので、母親が養子となったわけです。戦地に行った跡取りという青年は、野中昂という人で、彼の話は、母親から何回も聞いていました。先ほどの由貴さんのお父さんの話と似ているのですけれども。彼は独身のうちに中国戦線へ行くわけです。彼はすごく体格がよくて、徴兵検査で甲を付けられました。中国へ行って、何年か戦った後、一応任務を解かれた形で僕の郷里である兵庫県へ帰ってくることになっていました。彼が帰ってくるということで、皆で迎えに行ったそうですが、全然帰ってこないわけ、日本にね。「どうしたのだろう?」と僕の母親たちが思っていたら、ちょうどその日に「日華事変」が起きていたんです。彼が除隊となったその日の朝、「日華事変」が勃発して、除隊は取り消しになっていたのですね。そのとき彼はすごくがっかりした。これで故郷に帰れると思ったら、そのままずっと中国戦線で…。

 その後、しばらくしてから 鳥取の赤十字病院から電話があって、「今、野中昂という人が病気で中国から帰されてきました。もう長くないからすぐに来てください」という知らせが入ったのです。それで母親の兄貴(僕の叔父)が、姫路の方から鳥取の赤十字病院に行くわけです。面会したら、野中昂は「ほんまにえらい目に遭ったんや」と、たった一言だけ残して死んでしまったそうです。病気ゆえか身体もぼろぼろになっていて、本当にかわいそうな最後だったということです。そういった話をいろいろ聞いている中で、「戦争を起こしてはいけない」という意識が生まれてきたのです。
僕自身も戦後生まれになりますから、もちろん日本の戦争というものは経験していません。ですが、戦争がもたらした人間の悲しみというものを、自分の中のどこかに刻み込んできたのですね。
(続く)


宗由貴(そう・ゆうき)
1957年、香川県生まれ。1980年、少林寺拳法の創始者である、父・宗道臣の後を継ぎ、少林寺師家第2世宗道臣を襲名。2000年、少林寺拳法グループ総裁に就任。