「箸一本で生きた男」

台湾原住民の一つ、プユマの出身で、音楽家のイサオこと林豪勲氏(57)が四月十五日に急逝し、この四月二二日に台東市内の自宅で告別式・音楽葬が営まれた。
全身不随の彼は口に咥えた箸一本で生きていた。電話も取れば、テレビのリモコンも操り、さらにはパソコンのキーも叩き、驚くべきことに音楽ソフトを駆使して曲を創作した。
事故は三十年前の二七歳のとき。自宅の建築現場から落下し、脊髄を損傷して、首から下の感覚と機能を失った。小学校の教師をしていた姉の清美が、教壇を下りて面倒を見た。身の回りの世話ばかりか、病院への借金を返しつつ、生活費を稼ぎながら看護にあたったのである。そのときはちょうど二人の実母も脳卒中で倒れており、清美は二人の寝たきりの家族を看ていたことになる。

イサオは数年たって、自分の身体が治らないことを悟ると、自殺のことばかりを考えたが、顔にたかるハエさえ追えない自分が死ぬ方法はなかった。悶々と無為の日々が続いた。しかしそのはてに、思いがけず、イサオの人生を再生する出来事が待っていた。ウィンドウズとインターネットの登場である。イサオはほとんど自力でパソコンの操作とソフトによる作曲をマスターし、口から口へと伝えられてきた民族伝統の調べを採譜しては、それを交響曲に改編していった。
プユマはわずか人口一万のちいさな民族であるが、台湾十二の原住民の中でも、もっとも音楽的才能に恵まれた民族といわれる。彼らの生活は歌とともにあった。しかし近代化やテレビ・テープの普及とともに伝承の歌声はほとんど消えようとしていた。イサオはそれを救おうと、眠るのも忘れてキーボードと格闘した。口に箸を咥えたその姿から、彼は「きつつき人」と呼ばれるようになった。
寝ているベッドから見えるかすかな海の輝きを眺めながら、彼の心には海と船への憧れが育っていった。彼はその夢を実現するために奮闘し、2000年には那覇から石垣・基隆、2005年にはフィジーから横浜への航海を実現する。そして今度は大阪から台湾への航海に挑戦しようと話していた矢先の急死だった。
いずれの旅先でも、日本の友人たちの歓迎を受け、その講演とコンサートは人々に生きる勇気と爽やかな感動を与えた。
動けなくなって数年の頃、一番苦しいとき、救ってくれたのは、日本の歌であったという。吉永小百合さんや小椋桂さんがお気に入りだった。
「イサオ」や「清美」は、親からもらった名前で、それが通称であり、本名になっている。このきょうだいは、敗戦をはさんで生まれ、日本語を母語として育った。イサオの場合は、成人してから民族の言葉を本格的に習ったものの、家族の会話はいまではすっかり北京語(台湾の国語)になっている。彼らの家族もまた、他の台湾原住民と同様に、日本を含む異民族との相克の中に生きてきたのである。

姉の清美は、イサオは自分の人生そのものでしたと、語る。友人たちは、この二人の無垢の愛にひきつけられるように、彼らの家を訪れた。精進落としの宴がはねるとともに、姉と弟、二人三脚の長い歩みが止まり、台東の青い空に一陣の春風が吹きぬけた。
私は台湾の友人の多くがお年寄りで、ご葬儀に参列する機会が多い。このたびはもっとも年齢が若く(私自身より四つ上)、重く哀しい別れとなったが、実に爽やかな式典でもあった。日本から寄せられた香典が三十件以上、参列した日本人が六人、箸一本で生きた一人の原住民青年は、実に僅かなあいだに我々を魅了し、鮮やかにこの世を駆け抜けて、天空の彼方へと去っていったのである。

写真説明(上から)
1.葬儀風景 2.その姿からキツツキ人と呼ばれた 3.二人三脚の人生を歩んできたイサオと清美 4.その人懐っこい笑顔に多くの人が励まされた
*二人の人生については、日本のメディアでも幾度か紹介されている。さいきんでは、2006年3月7日朝日新聞朝刊「シリーズ民族」no5として。また「保健師ジャーナル」2005年12月号に拙著「脊髄損傷を乗り越えて 台湾先住民姉弟の二人三脚」。



